2012.08.13

岐阜県高山市丹生川町ほか

岐阜県にお住まいの方で年配の方は一度は耳にされた名前と思われますが、しかし「両面宿儺」とは?

          両面宿儺(りょうめんすくな)とは

  両面宿儺は上古、仁徳天皇の時代に飛騨に現れたとされる異形の人、鬼神である。
  「日本書紀」において武振熊(たけふるくま)に討たれた凶賊とされる一方で、岐阜県の在地伝承では毒龍退治や寺院の  開祖となった逸話も残っています。

  では、両面宿儺の歴史的史跡はどんな処にあるのでしょう

  1.「両面宿儺洞窟」 (岐阜県高山市丹生川町日面出羽ヶ平)
      
 両面宿儺が住んでいた洞窟。
  2.晋門山 善久寺」の石膳 (岐阜県高山市丹生川町日面)
       
 
両面宿儺が大和朝廷に従わず、討伐の命を受けた、武振熊(たけふるくま=神皇后に仕えた将軍)と戦うため村
         を出るため、村民が別れの宴を催し、村民に迷惑を掛けないようこの寺の庭で石の膳でもてなしを受けた「石        膳」がある寺。
  3.袈裟山 千光寺宿儺堂 (岐阜県高山市丹生川町下保1553)
       
両面宿儺が開山したと言われる寺、円空作の両面宿儺像が祀られる「宿儺堂」があります。
  4.飛騨位山の伝承(岐阜県高山市・下呂市高山市一宮町=)
      
鬼神「七儺」を、両面宿儺が天皇の命により討ったともされる。 位山近くの飛騨一宮水無神社には、享保年間に       編纂された『飛州志』では神宝の一つとして「七難の頭髪」を挙げ、神主家の説として鬼神七難が神威により誅伐さ       れた伝承があります。
  5.「金山町・鎮守山の伝承 (岐阜県下呂市金山金山町)
      
斐太(飛騨)日面出羽ヶ平の岩窟より、飛行してこの地に杖を休め、37日間大陀羅尼というお経をとなえ、国家安       全、五穀豊穣をお祈りした後、大和朝廷の追討の将、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を迎え撃つた       め、関市武儀町下之保の高沢山へ飛んでいった」という伝説があります故にこの山を鎮守山と呼び村人が観音       堂を建てて祭ったともいわれている。
  6.「大日山 暁堂寺」の伝承 (岐阜県関市肥田瀬)
      
『新撰美濃志』に引く大日山日龍峰寺の寺伝では、飛騨国に居た両面四臂の異人が、高沢山(暁堂寺の山)の毒       龍を制伏したとする。その後行基が伽藍を創建し千手観音の像を安置した。千本桧はこの異人が地に挿した杖が       生い茂ったものという。
  7・「大日山 日龍峰寺」 (岐阜県関市下之保)  
       両面宿儺はこの地方に被害を及ぼしていた龍神を退治し、龍神の住んでいたこの山に祠を建立したのが始まりと       伝わる。
          以上が各地に伝わる両面宿儺の伝承のあらましです。
              (岐阜県丹生川村企画商工観光課発行「両面宿儺洞窟」パンフレットほかより)

両面宿儺の話が伝説でなく実際の話とする証拠は「日本書紀」にその記述があることです。

『日本書紀』仁徳天皇65年の条両面宿儺が登場する。
出典:フリー百科事典ウィキペディアより)

 (日本書紀原文)
  
六十五年 飛騨國有一人 曰宿儺 其為人 壹體有兩面 面各相背 頂合無項 各有手足 其有膝而無膕踵 力多以輕捷 左右佩劒 四手並用弓矢 是以 不随皇命 掠略人民爲樂 於是 遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之

 (現代語訳)
 飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみ【膕】「ひきかがみ」の音変化》ひざの後ろのくぼんでいる所。)と踵(かかと)がなかった。力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した。    とあります

 飛騨地方の観光地に「飛騨鍾乳洞」の向かいの山の中腹に「1.両面宿儺洞窟」があります。

「飛騨大鍾乳洞」上り口
「飛騨大鍾乳洞」は国道158号を平湯へ向かう途中から北へ入り約1kmにあります。
飛騨大鍾乳洞には「両面宿儺鍋」と「両面宿儺洞」があります

その駐車場に「日本一宿儺鍋」があります。
「飛騨鍾乳洞」へはここを”クリック”)

時価2億円の金塊盗難で有名な飛騨大鍾乳洞駐車場の

 

両面宿儺鍋
りょうめんすくななべ)

岐阜県高山市丹生川町日面1147

北緯

36

10

55.0

東経

137

25

34.5

これは、土産店裏の山に「両面宿儺洞」があり、地元に残る伝説から「宿儺鍋」が作られ
毎年の宿儺まつりがに使われるそうです。
2億円の金塊が展示されていた「大橋コレクション」は写真の右の白い建物です。
(詳しくは「初夏の奥飛騨小旅行記」のご覧ください。現在は警察が取り戻した金塊が展示されています)

鍋の脇には「両面宿儺洞」の看板があります。

飛騨大鍾乳洞駐車場の脇山の
1.両面宿儺洞

りょうめんすくなどう)

山の中腹あたりに洞があります。

では両面宿儺と鍋の因縁とは?

                                                                     鍋との因縁
 飛騨日面出羽ヶ平に居た両面宿儺を大和朝廷が討伐命令を出し、神功皇后に仕えた将軍「武振熊(たけふるくまを派遣した。
 宿儺は村に戦禍を避けるため出羽ヶ平(この地)から、出て戦うことを決め、民人からもてなしを受けますが、民に難が及ぶのを気遣い、軒から外れた石を膳に鍋を食べたとされその石が両面宿儺の御膳石として今も高山市丹生川町日面の善久寺に大切に守られています。
 故に、五穀豊穣を祈り民人を守り働いた宿儺を偲び、「飛騨にゅうかわ宿儺まつり」が行われ、この鍋が活躍しました。
 鍋は今は老朽化して使われて居ません。
                     (平成二十二年十月七日 飛騨大鍾乳洞観光株式会社)
                           
(現地説明板を要約)

両面宿儺洞へ行くには
「飛騨大鍾乳洞」のお土産街の中央辺りにある土産物・食事処の「鐘乳堂」さんを訪ねてください。
ここが両面宿儺遺跡保存会の事務所(0577−79−2033)を兼ねています。
遺跡保存会会長(店主 今尾重雄さん)に洞へ入りたいと、お願いすれば
「熊よけの鈴」を貸して下さって、洞の登り口まで案内してくださって、
柵の鍵を開けて、洞内の電灯の電源を入れて下さいます。
(ただし、先回の飛騨地震により登り階段の一部が壊れていてH25、10中旬頃まで通行禁止)

土産物店の並びを裏へ回ります。

道路脇に登り口の階段と柵があります。

登り口には洞窟まで登れない方のために「両面宿難遥拝所」があります。

「鍾乳堂」のご主人が鍵を開けてくれて、洞内の電灯の電源を入れてくれます。
途中落石の危険があるのと熊の出没に充分気を付けるよう注意されます。
ただし見物時の被災の補償は無いそうです。

両面宿儺洞窟(画像は岐阜県丹生川村企画観光課発行より)
平成2年に完成した洞窟への鉄製階段と岩壁
坂道を10分程登ると階段になります。

出発
足元は岩だらけですが手すりがありますから大丈夫です。

         両面宿儺の伝説 (岐阜県丹生川村企画観光課発行)
 
日本古代史の中で耶馬台国から草創期の、謎の4世紀とされる時期があります。
 即ち、大和王朝発展期に至る約100年の課程です。
 文献的には「古事記」と「日本書紀」に描かれる王権成立と発展の時代であり、大型古墳時代開幕の時でもある。
 およそ1、500余年のむかし飛騨にも大和朝廷の力が及び、大八椅命が斐陀国造に任じられています。
 飛騨を支配していた両面宿儺は朝廷に従わなかったので仁徳天皇の命令を受けた武振熊(たけふるくま)命が討伐の兵を進めました。(つづく)

少し登ると足場は良くなりますが手摺が頼りになりません。

10分程登ると鉄製の階段になります。
この階段は平成2年に整備されたそうです。

   両面宿儺の伝説(その2)岐阜県丹生川村企画観光課発行より
 宿儺は頭の前と後ろに顔があり、胴体には前後ろ2本づつの4本の手があり、両脚、足の指は前後に付き、力は強く、動きは軽く捷く、左右に剣を佩きて、四ッ手並に弓矢を用ふと「日本書紀」は伝えています。
 この地、小八賀郷出羽ヶ平に出現し、飛騨美濃に君臨していた。(つづく)

            両面宿儺の伝説(その3)岐阜県丹生川村企画観光課発行より
 宿儺は武振熊命の軍を迎え討とうと、部下を率いて武儀郡高沢山(後ほど7.大日山 日龍峰寺と高沢山で紹介)で待ち伏せしていました。
 長い攻防の末戦いは利あらずと退却し、山の中に姿を消しました。
 宿儺のあとを追って都の軍が中津原(岐阜県下呂市金山町中津原)まで来ると白い鳩が北に向かって飛翔しました。
 武振熊命は一路北を目指し進軍しました。(つづく)

階段を4折れほど登ると落石のため大きな穴が開いています。
(ここの修理が25年10月末までかかるようです)

   両面宿儺の伝説(その4)岐阜県丹生川村企画観光課発行より
 武振熊命一行はやがて前方に一際高く聳え立つ乗鞍岳を仰ぎ、宿儺の居場所の予感を受け、左側の渓流小漢僧谷を目指しました。
 宿儺の本拠天然要害の出羽ヶ平両面洞窟を発見し、洞窟を目指して岩山をよじ登り激しい攻防戦がくりひろがりました
 50人力宿儺は岩石を投げ落とし、大木を引き抜いて投げつけ、神業のような敏捷さで走り回って戦い続けました。
 少人数の宿儺勢次第に疲れ、最後は宿儺と武振熊命の組打ちとなり、岩屋の前で凄い一騎打ちとなりました。
 とうとう命に組み伏せられ縛られてしまいました。
 宿儺の超人的な能力に感じ入った命は、降伏して従うよう奨めましたが、頑として聞き入れず、やむなく討ち果たしました。(つづく)

地震のための落石が道を塞いでいます。

   両面宿儺の伝説(その5)岐阜県丹生川村企画観光課発行より
 後の世になって、弘法大師は宿儺菩薩出現の霊地岩屋内において、護摩供養百日を修勤されました。
 又、円空上人は笑を浮かべた顔と怒っている顔の両方を一度に表現する両面宿儺像を彫作し千光寺(後ほど3.袈裟山 千光寺で紹介)に残しました。
 いずれにせよ、古代史謎の4世紀〜5世紀にかけて統一日本国誕生の一時期に飛騨の両面宿儺
が大きく存在していたとの伝承であります。(おわり)

登り始めてから20分ほどで洞の入口へ到着します。

洞入口には村人が「安永三年(1774)」に安置した脇仏があります。

内部には電灯が点いています

内部も鉄階段が設けてあり電灯が点いています。

両面宿難は大変な場所に住んでいたのです。

 

一番奥へ着いたようです。
両面宿難石像が中央に祀られています。
(入口から約5分の場所)

観光客用に原型を壊さず手摺が施設されています。

腰をかがめ頭を低くして下ります。

下に駐車場が見えてきてホッと安心しました。

次は国道158へ出てすぐ下の両面宿儺の石膳がある寺晋門山 善久寺

2.晋門山 善久寺

岐阜県高山市丹生川町日面

北緯

36

10

34.0

東経

137

25

03.4

宿儺が村人と別れのもてなしを受けた石膳のある善久寺を紹介します。

国道158号の丹生川町へ出ると「日面橋」の道標があります。

                日面と両面宿儺
 今からおおよそ千六百年前、出羽ヶ平(高山市丹生川町日面地内=以前は大野郡丹生川村日面)の岸壁(がんぺき)から身の丈、一丈八寸、一体両面四手両脚の宿儺が、身には甲冑を着して、兵杖を帯び、、二手には斧を持ち、一方の手に印を結んで出現したと伝えられています。
 飛騨・美濃の広い地域には宿儺が十一面観音の化身として、国家安泰五穀豊穣を願い民人のために働いた伝説が残されています。
 しかし、日本書紀には大和朝廷に従わず、討伐の命を受けた、武振熊(たけふるくま=神功皇后に仕えた将軍)と美濃の高沢山( 岐阜県関市神野山、標高354m)で戦い(「両面宿儺の戦い」)破れたと記されています。
                     (出典:フリー百科事典ウィキペディアより)

しばらく進むと右側に「両面宿儺の御膳石」の看板が見えてきます。

其の反対側には「晋門山 善久寺」の看板もあります。
(この画面から遠くに見えるのが「飛騨大鍾乳洞」の登り口の看板です)

看板の近くの道を北へ上る道があります。

100mほど上ると赤い屋根の家が「晋門山 善久寺」です。

一見普通の家の様ですが「晋門山 善久寺」です。

善久寺所蔵の両面宿難像(作者不明)
(画像は岐阜県丹生川村企画観光課発行の「両面宿難洞窟」より)

ご住職に「御膳石」の案内をお願いすると
気軽に応じていただけました。

「御膳石」は寺の前の石段を下り草道を歩き、もう一段下へ降りると木の下にあります。

狭い道を下ると右側の木の元に在りました。

石の上面には食事を盛ったと云われる、窪んだ穴があります。

自然のままにしてあり、いにしえの時の流れを感じられました。

次に宿難が開山と伝えられる千光寺を紹介します。
同じく国道158号の丹生川町下保にあります。

3.袈裟山 千光寺

岐阜県高山市丹生川町下保1553

北緯

35

11

15.5

東経

137

17

36.1

飛騨国千光寺は、仁徳天皇の御代、今から1600年前に飛騨の豪族両面宿儺(りょうめんすくな)が開山し、
約1200年前に真如親王(弘法大師の十大弟子の一人)が建立したといわれる古刹です。

国道158号から北へ入り1kmほどにあります。

境内は広く、かなり手前の県道脇に石柱があります。

広い境内に遊歩道が作られています。

国指定の天然記念物「五本杉」は途中にあります
1本の幹(みき)部分から5本の木が分かれて生えており、樹齢1200年、
本尊千手観音とならび千光寺の信仰のシンボルとされ、
7年毎の本尊の開帳法要の際、地上約10メートルにしめ縄がかけられる。

山門の手前で車を止めます。

境内を入ると「円空佛収蔵館」があります。

千光寺は「雲海」で有名!
千光寺は両面宿が開山したことより、円空両面宿儺像」を彫ったことより雲海が有名でした。

今は木が大きく育ち視界が悪くなりましたが、天候により今でも素晴らしい「雲海」が見られるそうです。

「道場」

                 高山市指定文化財(建造物)
                  
観音堂 棟札

 永禄七(1565)年,武田軍勢の飛騨攻めの際に当山の七堂伽藍は焼き討ちに遭い、焼失した。
 その後文禄一(1592)年に本堂の原型として草庵が建てられた、時の中興初代住職、玄海法印が一千座
 の本尊観世音菩薩の修法を行った。
 その二年後の慶長三(1598)年に、阿弥陀堂(現在の持仏堂)とともに本尊を祀り、現在の堂宇に完成するのは萬冶二年である。
 本堂再建には、高山城主金森頼直の誓願があったと記され、再建奉行は、森直次、大工中井甚次郎、住職は権大僧都法印舜慶である。
              昭和四十四年十二月十一日指定  高山教育委員会

               高山市指定文化財(建造物)
             鐘楼堂

 建立年不詳。
 永禄七(1565)年,武田軍勢により伽藍は焼き討ちに遭い、当山中腹にあった鐘楼が焼け落ち、梵鐘が真っ赤に焼けて、武田勢をなぎ倒したとの伝説がある。
 その梵鐘は長く高山城の時の鐘として打たれていたが、高山城破却の際に当山に帰ってきた。
 その鐘には松倉城主三木氏の寄贈の銘があり、現在 岐阜県指定文化財として、円空仏寺宝館に収められている。
 現在の鐘楼は江戸時代に再建されたものである。
                   平成十五年六月十六日指定  高山教育委員会

宿儺堂
(すくなどう)

               高山市指定文化財(建造物)
             宿儺堂

 慶長三年(1598)建立。
 当山の開創者「両面宿儺」を祀る堂宇である。
 両面宿儺は日本書紀にも登場する飛騨の開拓者であるが、最後は朝廷と戦って敗れる。
 平成の解体修理の折にに天井裏から棟札が発見され、慶長三年の建立と判明した。
 永禄七(1565)年,武田軍勢の飛騨攻めの際に当山七堂伽藍は焼き討ちに遭い焼失した。
 その後文禄一(1592)年に本堂の原型として草庵が建てられた、時の中興初代住職、玄海法印が一千座
 の本尊観世音菩薩の修法を行っている。
 
                   平成十五年六月十六日指定  高山教育委員会

(画像は岐阜県丹生川村企画観光課発行の「両面宿難洞窟」より)

2013年04月にテレビ愛知放送局で
再放送された「なんでも鑑定団」にたまたま放送された
「両面宿儺坐像」

テレビ愛知の「なんでも鑑定団」より

           「日本書紀」と地元の伝承との違い
                 (
出典:フリー百科事典ウィキペディアより)

 『日本書紀』では皇命に逆らう賊とされる両面宿儺だが、飛騨から美濃にかけての旧飛騨街道沿いには様々な伝承がのこり、その内容は『日本書紀』の記述と異なるものが多い。以下に主な伝承を挙げる。

                    高山市の伝承

 元和七年(1621年)の奥書(典籍のうち写本の巻末に書かれた記載で,主として書写・校合・伝授などについて記す。)を持つ『千光寺記』には、高山市丹生川町下保にある袈裟山千光寺の縁起が記されている。
 これによれば、仁徳帝のころ飛騨国に宿儺という者があり、八賀郷日面(ひよも)出羽ヶ平の岩窟中より出現した。
 身のたけは十八丈、一頭に両面四肘両脚を有する救世観音の化身であり、千光寺を開いた
 このとき山頂の土中に石棺があり、法華経一部・袈裟一帖・千手観音の像一躯を得たという。
 同じく丹生川町日面の善久寺の創建も両面宿儺大士と伝え、本尊釈迦如来のほかに両面宿儺の木像を安置する。
 また、位山(高山市一宮町)の鬼「七儺」を、両面宿儺が天皇の命により討ったともされる。
 位山の付近には飛騨一宮水無神社があるが、享保年間に編纂された『飛州志』では神宝の一つとして「七難の頭髪」を挙げ、神主家の説として鬼神七難が神威により誅伐された伝承を記す。

                 下呂市金山の伝承  

 『金山町誌』によれば、武振熊命(たけふるくまのみこと)が討伐に来ることを知った飛騨の豪族両面宿儺は、八賀郷日面出波平を出て金山の鎮守山に37日間留まり、津保の高沢山(岐阜県関市)に進んで立てこもったが、敗れて討死したという。
 これには異伝があり、出波平から金山の小山に飛来した両面宿儺は37日間大陀羅尼を唱え、国家安全・五穀豊穣を祈念して高沢山(岐阜県関市神野山、標高354m)へ去った。
 故にこの山を鎮守山と呼び村人が観音堂を建てて祭ったともいう。

                 関市下之保の伝承  

 『新撰美濃志』に引く大日山日龍峰寺の寺伝では、飛騨国に居た両面四臂の異人が、高沢山の毒龍を制伏したとする。
 その後行基が伽藍を創建し千手観音の像を安置した。
 千本桧はこの異人が地に挿した杖が生い茂ったものという。
 或いはこの異人は、飛騨より高沢山に移ってのち、霊夢の告により観音の分身となったともいう。
 また、『美濃国観音巡礼記』には日龍峰寺の開基を「両面四手上人」としている。

    この他に、両面宿儺を討った武振熊命の建立と伝わる八幡社が飛騨各地にある。

(以上出典:フリー百科事典ウィキペディアより)

弁天堂

次に両面宿儺

岐阜県高山市・下呂市
4.位  山

Mount Kurai from south 2011-02-20.jpg

天孫降臨、天の岩戸、両面宿儺などの伝説のある山である。
画像出典:フリー百科事典ウィキペディアより)

          位山の名前の由来
 朝廷に位山のイチイを笏(しゃく=天皇や官人・神主が持つ細長い木の板)の材料として献上した際、この木が一位の官位を賜ったことから木はイチイ、山は位山と呼ばれるようになったという説があり、現在でも天皇即位に際して位山のイチイの笏が献上されている。
      画像出典:フリー百科事典ウィキペディアより)

 

5-1.金山 鎮守山 

岐阜県下呂市金山町十王坂

北緯

35

39

19.5

東経

137

09

38.0



金山鎮守山画像近日掲載予定

 

                    金山鎮守山の由来伝承
 仁徳天皇の時代(西暦400年頃)、大和朝廷に従わない両面宿儺(りょうめんすくな)という怪人がいました。
 2つの顔と4本の手を持ち、飛騨大野郡八賀郷(現在の飛騨市丹生川町)日面出羽ヶ平の岩窟より、飛行してこの地に杖を休め、37日間大陀羅尼というお経をとなえ、国家安全、五穀豊穣をお祈りした後、大和朝廷の追討の将、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を迎え撃つため、関市武儀町下の保の高沢山へ飛んでいった」という伝説があります。
 その後武振熊は高沢で宿儺を破り、宿儺を追って飛騨の入り口であるこの地・金山町中津原に至り大岩の上に八幡様を勧請しました。この岩が「根子岩」と呼ばれ下原八幡神社に残っています。
                画像出典:フリー百科事典ウィキペディアより

5-2.下原八幡堂

岐阜県下呂市金山町中津原

北緯

35

40

18.5

東経

137

10

25.5

下原八幡神社
画像出典:フリー百科事典ウィキペディアより

次に岐阜県関市の暁堂寺へ

6.金龍山 暁堂寺

岐阜県関市肥田瀬1280

北緯

35

28

42.5

東経

136

57

03.9

関市と飛騨金山を結ぶ「県道58号」の肥田瀬地区にある。
当寺へ行くなら「肥田瀬」(肥田は飛騨が由来していると言われている)バス停まで行きバス停前の農協を尋ねる

山道を上がると駐車場があります。
そこからは石段があり堂へ登れます。

            金龍山 暁堂寺
                      (きんりゅうざん ぎょうどうじ)

 仁徳天皇の御世、飛騨(斐大、肥田)の国八賀の里の異人「両面宿難」(両面僧都)がこの地に宿営し、一夜、夢枕にたつった金龍のお告げに従って、五穀の豊穣と国土の安穏、住民の和楽を祈願しつつ彫り上げたもの。
                          (関市重要文化財指定)
Img_3159

 開帳期間は毎年4月17日〜24日の9時〜17時です。
 
ご本尊は、平安時代に作られた一木作彫眼の高さ115センチの立像。
 奈良時代、両面宿儺(すくな)が飛騨からこの地へ来て、彫ったと伝えられています。
 また、この像は次に紹介する下之保高澤にある「大日山 日龍峰寺」に安置される観音像と同木で彫り安置されたものと伝えられています。
                               (現地説明板より)

帰り道 境内の脇に「若?塚」があり
「古老の口伝に斐太の偉人”両面宿儺”の使(?)者 舎人和可の髪を埋奉したと言ふ」

最後に関市下之保に伝わる「両面宿難」伝承を紹介します

7.大日山 日龍峰寺
と高沢山
354m

岐阜県関市下之保4585(海抜267m)

北緯

35

32

37.5

東経

136

51

26.5

                  両面宿儺がこの地方で龍神を退治して建立した寺
 岐阜県下最古の寺で、本堂前方が舞台造りで京都の清水寺に似ていることから、美濃清水とも呼ばれています。
 鎌倉時代の北条政子寄進の多宝塔は、国の重要文化財に指定されています。

 寺伝によれば、5世紀前半の仁徳天皇の時代、美濃国に日本書紀にも登場する両面宿儺(りょうめんすくな)という豪族がいた。
 両面宿儺はこの地方に被害を及ぼしていた龍神を退治し、龍神の住んでいたこの山に祠を建立したのが始まりと伝わる。
 鎌倉時代、北条政子によって再興されたと伝えられている。
                          (現地説明板より)

山門をくぐると石段が続く
 室町時代、応仁の乱によって多宝塔を残し堂宇の大半を焼失した。
その後、江戸時代になって現在の伽藍が整えられた。

更に石段は続きます。
(8〜10分で本道下へ着きます)

                  大日山日龍峯寺本堂(本尊:千手観音菩薩)
 本堂五間四面入母屋造り桧皮葺で山頂傾斜地の岩上に建立す、前方は舞台造りで京都の清水寺によく似ており、美濃清水の異名で世に知られています。
 鎌倉尼将軍寄進の本堂は惜くも応仁文明の乱により戦火の犠牲となり現在の本堂は寛文十年(江戸時代)の建造物です。                         (県指定・市指定文化財)

更に登ると「多宝塔」が見えてきます。

                       多宝塔(国指定重要文化財)
 地元の人から、「高澤観音」と親しみを込めて呼ばれている日龍峯寺は、古い歴史を秘めた名刹です。
 境内には鎌倉時代、時の尼将軍・北条政子によって建立されたという多宝塔が残されており、国の重要文化財にも指定されています。
                   千本桧と高沢山354m)(天然記念物)
 日龍峯寺本堂前の広場中央にあるこの千本桧は、樹高はおよそ20メートル、根元の回りは3メートルを超える巨木で、根元より無数に分かれた枝葉はまさに千本桧の名にふさわしく、霊木として景観をそえています。(市指定天然記念物)

両面宿儺の伝承のある場所を箇所紹介してきました。
各地の「日本書紀」の悪人説より、岐阜県下に残る善人説を信じたくなりました。mori70silver