松倉城と馬の足跡岩
松倉城址への道は「飛騨の里」から車で山道を1,5km登り峠の広場から徒歩で700mほどの場所にあります
飛騨松倉城址 岐阜県高山市上岡本町1丁目590 |
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飛騨の里のテディベア駐車場手前から「松倉城址遊歩道」の石段を登ると数百mほどで見えてきます。
峠の広場 |
石垣の本格的な城郭建築
本丸を中心に土塁でなく、石垣で大手門、二の丸、三の丸を作った本格的な城郭建築であったそうです。
史跡松倉城 |
堀 切(空堀)
500mほど登ると城址の痕跡が現れます |
本丸手前から砦跡の石垣が現れます。 |
搦手(からめて)門跡
南石門の跡
本丸跡の広場が見えてきました
本丸跡の石垣 |
本丸跡(松倉山山頂 標高856m) |
史跡「松倉城址」 |
城址から北方を |
松倉城落城秘話の「馬の足跡岩」は松倉山の反対側のアソシアホテルから「リスの森」へ向かう道中にあります。
「馬の足跡岩」と 岐阜県高山市千鳥町1111 |
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アソシアホテルから「リスの森」へ向かう道中約1.5kmほどの左側にあります。
道路の左側に案内板が見えてきます。 |
岩の上に特に「馬の足跡」は確認できませんでした。 |
松倉落城の秘話「馬の足跡(岩)」 振り返り見上げる松林の峰が、飛騨国司姉小路(あねがこうじ)中納言三木左京太夫自綱(よりつな)の居城「松倉城址」である。 天正十三(1585)年旧暦八月、豊臣秀吉の命を受けた金森長近・可重父子は、合崎山を本陣と定め松倉攻めにかかったが、自綱の息子秀綱が籠る城の守りは固く、攻めあぐねていた。 そこへ、三木の家臣、藤瀬新蔵の裏切りによる放火があり、秀綱以下が慌てふためくところ、「頃やよし」と金森勢は、鬨の声をあげ攻めた。 城方は散々の体にて落城となり、猛火の中、城を最後まで見届けた総大将秀綱も「もはや、これまで」と、愛馬にまたがり一気に飛び降りた。 それが、この岩上であると伝えられている。 その後秀綱は、平湯から安房(あぼう)を越え、信州福島興禅寺の伯父、桂山和尚を頼って身を寄せようとするが、途中郷民の手にかかって、あえなく落命した。 馬の足跡が残るこの巨岩は、四百余年を経た今も、山仕事や松倉観音参詣に行き来する人々に、秀綱を哀れむ松倉落城の秘話として語り継がれ、更に、この足跡を踏み締めれば足腰が強く、丈夫になると言い伝えられてきた。 昭和六十三年夏、折りしも大規模林道開設により、この足跡岩が埋め捨てられることを知った里人は、ことは重大であると高山市に陳情したところ、市の好意により、この地に飾り据えることとなったものである。 |
松倉山(856m) |