2012.10.27

大野城: 福井県大野市亀山
仏御前の滝: 福井県大野市仏原

織田信長に仕えていた武将、金森長近が築いた越前大野城と北陸の小京都といわれる城下町「おおの」
大野市仏原の荒島岳から流れ出る高さ100mに及ぶ三段の滝「仏御前の滝」
「瀬戸大橋」のプロトタイプとして作られた九頭竜湖に架かる吊り橋「夢の掛橋」などを巡ってきました。

越前大野城

所在地:福井県大野市亀山

遺 構      形 式:平山城

築城者:金森長近  築城年代:1575頃

越前大野城は標高270m余の亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、天守閣を構えるという中世の
山城には見られなかった新しい方式の城でした。

越前大野城は標高250mの亀山の頂上にあります。
城下町は標高約180mなので標高差は70mです。

越前大野城
越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、
天守を構えるという中世の山城には見られなかった新しい方式の城でした。
これは従来のような軍事目的ばかりでなく、政治、経済、文化の中心として、また、城主の力を示すために建てられました。

「本丸」は亀山公園(緑色の部分)
「二の丸」は学びの里「めいりん」で百間堀まで
(画像と説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

城への登り口は、南・北・西の三方向から登れます。

南登り口

観光客登り口
「柳廼(やなぎの)神社」

一般観光客は「結ぶステーション」駐車場あたりから登るので
駐車場から「柳廼(やなぎの)神社」の鳥居をくぐり境内からの登城が便利と思われます。

「柳廼(やなぎの)神社」

正面が「柳廼(やなぎの)神社本殿」です。

本殿の脇(南側)を通って亀山の麓で「南口登り門」横へ出ます。
そこから登城します。100mほど登ると「百間坂」分岐へでます。

百間坂

百間坂
江戸時代、大野藩の侍たちが城の本丸へ行くには、藩庁から亀山の山頂に通じる百間坂を必ず登りました。
今の百間坂以外の遊歩道は、明治時代以降に整備されたものです。
藩庁や御殿(藩主の居館など)のあった二の丸は、いま、学びの里「めいりん」の敷地になっています。
(現地説明板より)

「柳廼(やなぎの)神社」境内を見下ろしながら登ります。

飯降山伝説
(いいふりやま)     

                           飯降山伝説
 城への登城道から西に見える飯降山は伝説の山です。
 「伝説その1」 むかし、むかし、大昔。 山の中でたいそう美人な3人の尼さんが、姉妹仲良く修行していました。
 この3人の尼さんの仏道への熱心な修行、精進振りに天から見ていた神様が感心して、毎日大きなおにぎりを降らしていたそうです。
 そのことから、この山を飯が降る山。「飯降山」と呼ぶようになった。
 ところがある日、ふとしたことから3人の意見が合わなくなり、一緒に暮らす3人の仲にもひびが入り、毎日の修行もうまくゆかなくなってしまいました。
 そうするうちに、ぴたりと天からおにぎりが降らなくなってしまいました。
 とうとう3人は飢えに耐えられなくなり、山を下りることにしました。
 下山の途中の急な坂では3人が3人とも、ころころと転んで、滑り落ちたそうです。
 今も飯降山にある「尼転ばし坂」という場所です。
 こうして大変な苦労をしながら、よろよろと杖にすがって山を降りました。
 この下山した麓の地名が「丁(ようろ)」と言われるのは、尼さんたちが「T]の字型をした杖をついてよろよろと降り着いた土地だからといわれています。
                      (説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

更に坂を登ると大天守と小天守が見えてきます。

野面積み
越前大野城の石垣は、野面積みという自然石を加工しないで積み上げる16世紀後半の古い形式の石垣です。
隙間に詰め石があるなど、外観は粗雑に見えます。
しかし、水はけが良いため、実はたいへん堅固な造りとなっています。
石垣の工法は「野面積み」から「打ち込みはぎ」や「切り込みはぎ」といった、石を鏨(たがね)で加工し、
形を整えてから積み上げる工法へと移っていきます。
福井城や金沢城などの石垣は、そのような工法で造られています。
(現地説明板より)

金森長近の転封(てんぽう=国替え)の謎
1575年に織田信長と共に一向一揆討伐のため越前に入り、戦いぶりを認められ信長から大野郡の三分の二を与えられ
1576年から金森長近は大野城と城下町の建設を始め、年をかけ完成させたが、
1582年に信長が本能寺で明智光秀に討たれ、その後、豊臣秀吉の配下で柴田勝家や徳川家康と戦い
1585年にほぼ天下を統一し秀吉は関白となる。
1586年に秀吉は金森長近に飛騨平定を命じ、無事平定するとそのまま飛騨(5万石)に転封させてしまった。
長近にとって営々と築き上げた越前大野を簡単に取り上げてしまった裏の理由は長近は鉱山開発に優れ
九頭竜湖奥の平家岳に面谷鉱山を開発したのを秀吉に隠していたからとも伝えられる。
(以上当日大野城説明のボランティア氏の話)
飛騨高山藩が天領となった理由

その後高山領での長近は得意の鉱山開発能力でで神岡で銅山を見つけ、
これが後々金森氏六代目の時、幕府に領地を取り上げられ天領となる。
これも豊富な鉱山開発で得た財政を幕府に妬まれた天領(幕府領)とされてしまったといわれている。
1692年六代目金森頼時は出羽国上山藩(山形県上山市)に移封(いほう)される。

正面右に本丸への石段が見えますが左の角に「武者登り」が隠されています。

武者登りと天守

ここから、画像上方の親子が見える位置まで石段が続きます。

狭くて何度も折れ曲がり急な石段です。

上から見ると、その用途が分かります。
敵が正面階段へ迫ったとき、この階段を使って下り、
正面石段から攻めようとする敵の背後へ回り込むための石段です。

「武者登り」を登らず小天守下へ進むと一段高い場所へ上がると「武具庫跡」へ出ます。

武具蔵跡

武具蔵跡
武具蔵は、城を守るために必要な武器を保管していたと考えられる建物です。
鉄砲(火縄銃)、弓、槍のほか、鎧などの具足などで、大筒(大砲)も在ったようです。
(現地説明板より)

大天守下から小天守下を通って「塩硝(えんしょう)蔵」まで進みます。

大天守下

大天守下を進みます。

大勢の兵が進めないよう狭くて曲がりの多い道です。

小天守を過ぎると広場へ出ます。ここが「塩硝(えんしょう)蔵」跡です。

万一火薬に火が入って爆発した場合を考え城から離れた広い場所でに「塩硝蔵」はありました。

塩硝蔵(櫓)

「武具蔵」跡まで戻り一段上の天守台まで登ります。

武具蔵から橋を渡り「西枡形」へ進みます

天守への最後の石段です

西枡形跡

大天守と小天守を結ぶ渡り櫓が天守への入口です。
(現在は天守観覧所で入場料200円です。)

大天守

小天守

亀山を下り二の丸へ

 

二の丸
(学びの里「めいりん」)

二の丸から見た大野城

二の丸は明治維新の際から公共施設専用に計画されました。

明治維新の時二の丸あたりに在った大手門や枡形・内堀などを全部撤去して公共施設エリアにして
現在は「学びの里「めいりん」となったようです。
この建物には小学校・図書館・病院などがあります。

(百間堀)
現在は一部しか残っていませんが、これが越前大野城の外堀です。
当時の深さは、現在の2倍以上あり、無図も豊富にありました。
外堀は、亀山の南の「新堀川」にも名残があります。
お城の反対側を流れる赤根川から水を引いていたそうです。
(説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

三の丸

三の丸には「税務署・裁判所」などのほか「結楽座」「輝(キラリ)センター」「観光用駐車場」などがあります。

(武家屋敷旧内山家)

旧内山家
この建物は、幕末に大野藩家老として活躍した内山七郎右衛門良休や
その弟の隆佐良隆を輩出した内山家の旧宅です。
(入館料200円)
(現地説明板より)

(藩主隠居所)

無料休憩所です。
大野藩主「土井利忠」が晩年暮らしていた隠居所と言われている建物。
現在は無料休憩所となっています。
(説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

(芹川)

昔は、この川を境に武家屋敷と町人屋敷の場所が厳密に分けられて。いました
所々に番所が設けられ、町人は簡単に武家屋敷側に入ることができなかったそうです。
(説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

こから旧城下町といわれるエリアへ入ります。

越前大野城下町

城下町の中に大きな瓦造りの家が並ぶ辺りが「寺町通り」です。

町の区割り

信長の命により一向一揆を治めた後、城と城下町造りを始めたのが、金森長景。
城下町を碁盤の目状に区画し、城の近くを武士の屋敷を集めて囲い、その外側に町人の屋敷、
町の一番外側には防壁代わりに寺を並べた。
京都の町のように造られた城下町は、北陸の小京都と呼ばれている。
(画像と説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

金森長近の都市計画
城に近い「本町通り」から順に「二番通り」〜「五番通り」と防御の目的を兼ねた「寺町通り」
東西には北側から「石灯篭通り」・八間通り」・「七間通り」・「六間通り」となっています。

城下町の外壁はお寺!
敵に攻められたときの防御として、お城から一番遠かったこの通りに寺が並べられました。
この通りには約20ヵ寺の違う宗派の寺院が並び、全国でも珍しい光景です。
(画像と説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

「芹川」と「番屋
「本町通り」を境に「士(武家屋敷)」と「町(町人屋敷)」に分かれています。
その境界に「芹川」が流れて要所に「番屋」が置かれ出入りを検めていたようです。
(画像と説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

御清水
(おしょうず)

御清水(おしょうず)
かっては城主の用水として使われていたことから「殿様清水」とも呼ばれている遊水地。
さっぱりした味が特徴で、住民の社交のばともなっている。
(説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

このほかに市内には清水があり、市民の上水道として利用されています。

新堀清水(しょうず)
このほかに市内には清水があり、市民の上水道として利用されています。
水舟清水、七間清水、駅清水、新堀清水、五番名水庵清水、
石灯籠会館清水、篠座神社の御霊泉、義景水琴窟
などです。
(説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

御清水(おしょうず))の南に一乗谷で信長に攻められてこの地へ落ち延びて自刃した朝倉義景墓所があります。

朝倉義景墓所

 朝倉義景は織田信長との戦いに敗れ、大野に逃げ延びてきましたが、一族の朝倉景鏡(かげあきら)の裏切りにあい宿舎の六坊賢松寺で自害した越前の戦国武将。
(画像と説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

なお、朝倉氏の居城「一乗谷遺構」については、この「シルバーの散歩道」の「遊歩散策」編
「一乗谷朝倉氏遺蹟」をご覧ください。

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七間通りと朝市

 七間通り
七間通りでは400年以上も続く大野名物七間朝市が開催される通り。
 江戸時代、越前とみのを結ぶ「美濃街道」にあたり、多くの店が軒を連ねていました。
 現在も往時を偲ばせる老舗が立ち並びます。
(画像と説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

本町通り

当日は「三大朝市まつり」が本町通りも開催されていました。

「石灯篭通り」の「本町通り」側に「石灯篭地蔵尊」が祀られています。

石灯篭地蔵尊

石灯篭通り
遥か向うの本町通りに突き当たる所に地蔵尊が祀られています。

石灯篭地蔵尊の由来
石灯篭地蔵尊の安置は、いまを去る四百余年前にさかのぼると伝えられている。
時の領主は織田信長の武将金森長近であった。
長近は、天正年間、亀山山頂に天守閣を築き、東麓に二の丸・三の丸をおいた。
また、京都にならい城下町の建設をすすめた。
武家屋敷は、二の丸・三の丸を囲み、商工業者の居住地として、南北に一番町・二番町・
三番町・四番町・五番町・寺町の六筋をおき、
東西には大鋸町・六間町・七間町・八軒町・石灯篭通り・正膳町の六筋を区画した。
こうして奥越前に、碁盤目の区画の美しい小京都が出現した。
この城下町縄張り(測量)の基点とされた石灯篭通りの一番町見付に、測量縄その他の
用具が埋められ、その地に石灯篭地蔵が安置されたといわれている。
平成六年三月吉日                  
   大野市長 山内武士
(現地説明板より)

かっての城下町の防御帯の役目も兼ねた寺町通り

寺町通り

(画像と説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

寺町通り

(長勝寺)
城下町の防御壁代わりになるような立派な寺が続きます

(大宝寺)

次は平清盛に寵愛された舞の名手「仏御前」のいわれのある滝をご案内

越前大野仏原
仏御前の滝

大野市仏原の荒島岳から流れ出る高さ100mに及ぶ三段の滝。
滝の名は平清盛に愛され舞の名手として有名な「仏御前」が、この滝で髪を洗ったという伝説に由来しています。
(画説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

「仏御前の滝」
平清盛にこよなく愛された、舞の名手として、その一節が「平家物語」にも
記されている仏御前は、国道を挟んだ向うに見える仏原ダムの
底に沈んでいる仏原栃沢の生まれであるといわれています。
名称の由来は、仏御前がこの滝で顔や髪を洗ったことからだとされています。
日本百名山の一つ荒島岳から流れる滝の落差は約100mあり、
段にわたって豪快に流れ落ち、年中枯れることはありません。
(現地説明板より)

最初から長い階段(約280m)が続きます。

階段が終わると平らな道になります。

平らな道になると滝が見えてきます。

三段の滝が全部画面に収まっていません

このダム湖に「仏御前」の生まれ故郷「仏原栃沢」が沈んでいます。

続いて九頭竜湖に架かる「夢の掛橋」へ

越前大野九頭竜
夢の掛橋

東京ドーム27個分の容量をもつ人造湖。
四季折々の美しさが楽しめる場所です。
(説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)

以前は車輌通行禁止でした
(現在でも途中で車輌のすれ違いはできません)
「瀬戸大橋」のプロトタイプとして作られた九頭竜湖に架かる吊り橋。
(説明文は大野市観光協会「越前おおの」より)