2012.09.14

京都府京都市左京区鞍馬本町

鞍馬山・鞍馬寺の牛若丸伝説と鞍馬山東口の鞍馬寺の奥にある「くらま温泉」と鞍馬山西口の貴船神社周辺の
「船の川床」などを紹介します。

鞍馬山へ登るには鞍馬寺側にある「鞍馬山東口」から登り、貴船神社のある「鞍馬山西口」下り
貴船の川床料理を頂くのが最適コースです。

くらま温泉

その鞍馬寺側にある「鞍馬山東口」へ向かうと鞍馬寺の奥に「くらま温泉」があります。

「くらま温泉」は日帰りコース(大人:¥2500 子供:¥1600)もあり、
天然硫黄温泉で露天風呂もあります。

狭い道を登ると「鞍馬寺」街の中ほどにあり、その奥に「くらま温泉」があります。

鞍馬寺  
  鞍馬山

鞍馬山(くらまやま)は、京都府京都市左京区にある山である。標高584m
東を鞍馬川、 西を貴船川に ... 延暦15年(796年)、あるいは宝亀元年(770年)には、
鞍馬山の南中腹に毘沙門天を本尊とした鞍馬寺が創建された。
また、牛若丸(後の源義経)の修行の
霊山として知られ、密教による山岳修験の場として栄えた。

古くより、春は桜、秋は紅葉の名所としても知られた。「更級日記」にも鞍馬山の春秋の姿が描写されている。
  (ウィキペディアより)

鞍馬寺
奈良、唐招提寺(とうしょうだいじ)の開山鑑真和上(がんじんわじょう)の高僧、鑑禎(がんしょう)上人が、
宝暦元年(770)、鞍を負った白馬の導きで当山に至り、毘沙門天を感得して草庵を結んだのが始まりである。
延暦十五年(796)には、藤原伊勢人(いせと)が王城として鎮護の道場として伽藍を造営し、爾来(じらい)衆庶の信仰を集めてきた。
現在は鞍馬弘教(くらまこうきょう)の総本山であり、宇宙の大霊・尊天を本尊とする信仰の浄域である。
山の精霊である天狗が住む山としても有名で、貴船へと続く参道には、豊かな大自然の中に、
牛若丸(源義経)ゆかりの「息次の水」や「背比べ石」、枕の草子に記された「九十九折り」等の名勝古跡が散在し、
多くの文学作品にも登場する。
「初寅大祭(はつとらたいさい)」や「竹伐り会式(けかきりえしき)」など由緒ある行事も多い。
京都市(現地説明板より)

修養道場

仁王門まで登る石段の左にある建物が修養道場だそうです。
私は旅館か宿坊かと思っていました。

鞍馬山の山内にあって廃絶した十院九坊を一棟に結集する形で、
昭和30年代に建立されてたそうです。

石段を登ると仁王門が見えてきます。

仁王門

仁王門
湛慶作の仁王尊像を祀る。 俗界から浄域への結界。
寿永年間(1182〜1184)に建立されたが、明治二十四年に炎上したので、明治四十四年に再建され、
更に昭和三十五年に移築し修理が加えられた。
向かって右側の扉一枚は寿永の頃のものである。仁王像は作と伝えられ明治の再建時に丹波よりお移しされたという。
(現地説明板より)

阿吽の虎
(あうんのとら)

画像なし

阿吽の虎(あうんのとら)
仁王門前にあるのは狛犬ではなく、鞍馬寺は虎です。
虎は御本尊の一尊でもある毘沙門天のお使いであるといわれる神獣で、毘沙門天ご出現が、
寅の月・寅の日・寅の刻であったことから、鞍馬山では特に大切にされていて門前に狛犬でなく「阿吽の虎」だそうです。

愛山料
鞍馬山に登るには「愛山料」(¥200、団体¥160)が必要で、この仁王門で支払います。
(この仁王門が「鞍馬山東口」です)

鞍馬山のコース

マップの右の「受付仁王門」からスタートして赤線に沿って進み左方の「西門受付所」までがルートです。

参道登り始める脇に町石があります。

参道と町石(ちょうせき)

本殿金堂まで八町(880m

町石(ちょうせき)
この石標は「町石(ちょうせき)」といい、本殿までの道のりを示すものです。
八町七曲がりの九十九折り参道に一町(約110m)ごとに建っています。
(現地説明板より)

還浄水(げんじょうすい)
この奥の正面に観音様の漣華から流れ落ちる、
還浄水(げんじょうすい)
があります。

この石段が鞍馬山の入口です。

一区切り登ると子供の地蔵様があります。

童形六体地蔵尊
(どうぎょうろくたいじぞうそん)

「鞍馬山保育園」
鞍馬寺には「鞍馬山保育園」があり、大勢の子供の声が聞こえていました。

「鞍馬山保育園」脇の参道を登ると普明殿があります。

普明殿
(鞍馬山道場とケーブルカー駅)

普明殿(ふみょうでん)
ここは、鞍馬山の姿と心を知って頂くための修養道場です。
すべてのものおは互いに連なり合って、共に大きな力によって生かされていることを感謝してくださることを希っています。
修養道場
心を磨くための法話・写経・書道・華道・茶道など。
(現地説明板より)

ケーブルに乗ると多宝塔へ一気に登れます。

多宝塔

          多宝塔と弥勒堂
 多宝塔駅を出るとすぐ右側にあります。
 多宝塔は、かって本殿東側にありましたが江戸時代後期に焼失しました。
 ケーブル開通後の昭和35年に現在地に再建さ、ケーブル工事中に発見された毘沙門天が多宝塔に祀られています。
 多宝塔からの道は「新参道」と呼ばれ、約300メートルぐらいで、途中に弥勒堂があります。
 弥勒堂にはお釈迦さまの滅後、56億7千万年を経てこの世に出現し、人類を救済すると信じられている弥勒菩薩が安置されています。

(鞍馬山総本山発行パンフレットより)

ケーブルカー駅の脇にはこんな看板もありました。

おすすめ
山頂の本殿まで木立の中の九十九折参道は約1kmです。
途中、重要文化財に由岐神社拝殿や、義経公供養塔など諸堂めぐりもできます。
みかし、清少納言や牛若丸も歩いた道です。
けんこうのためにも、できるだけお歩きください。
鞍馬寺

50mほど登ると鬼一法眼社が右手に見えてきます。

鬼一法眼社
(きいちほうげんしゃ)

武芸の達人「鬼一法眼」を祀った神社

鬼一法眼社
鬼一法眼は牛若丸に「六韜三略」(りくとうさんりゃく)の兵法を授けた武芸の達人といわれる。
武人の上達を祈願する人も多い。
(現地説明板より)

韜三略(りくとうさんりゃく)とは?
『六韜』(りくとう)は、中国の代表的な兵法書で、武経七書の一つ。
このうちの『三略』と併称される。「韜」は剣や弓などを入れる袋の意味である。
(ウィキペディアより)

放生池
(ほうじょういけ)

画像はありません
放生池
は見落としましたので画像がありません。
放生池は生きものを放して逃がすところです。

この放生池から魔王の滝(まおうのたき)まで一帯を護法境(ごほうきょう)といいます。
吉鞍稲荷社(よしくらいなりしゃ)や鬼一法眼社(きいちほうげんしゃ)があります。
(ウィキペディアより)

その上方に由岐神社があります。

由岐神社

由岐(ゆき)神社
大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと)を祀る。

 天変地異が続く都を鎮めるため、天慶(てんきょう)三年(940)、御所内に祀られていた祭神をこの地に
勧請(かんじょう)したのが当社の始めとされ、天皇の御病気や世上騒擾(そうしょう)のとき、
社前に靭(ゆぎ=矢を入れる器具)を奉納して平安を祈ったため靭社の名がつき、
後に現在の社名となったとも伝えられている。

このほか、本殿脇の石造の狛犬一対も重要文化財に指定されている。

京都三大奇祭の一つとして有名な「鞍馬の火祭」は当社の例祭で、毎年十月二十二日夜に行われる。

祭事勧進の際、篝火(かがりび)を焚(た)いてお迎えしたという故事にちなんで、
氏子らが大小様々の松明(たいまつ)をかついで鞍馬街道から参詣するため、一面火の海となって壮観を極める。
京都市)
天慶三年(940)、鞍馬寺が御所から鎮守社として勧進した。
矢を入れて背に負う靫(ゆぎ=うつぼ)を祀り世の平穏を祈る。
(鞍馬山総本山発行パンフレットより)

割拝殿
重要文化財の拝殿は、慶長十二年(1607)、豊臣秀頼によって再建されたもので、中央に通路(石階段)をとって
二室に分けた割拝殿(わりはいでん)と言う珍しい桃山建築で、
前方は鞍馬山の斜面に沿って建てられた舞台造(懸造=かけずくり)となっている。
京都市

三本の大杉
割拝殿の奥にある、三本の大杉は圧巻です。高さ、太さ、本当に凄くてカメラに納まりません。

御 由 緒
天慶(てんきょう)三年(940)に天下泰平・万民の守護神・都の北方の鎮めとして朱雀天皇の詔(みことのり)
により御所にお祀りされていた由岐大明神がこの地に御鎮座なされました。

その様子を遺し伝えたのが「鞍馬の火祭」の起源であります。

その後豊臣秀吉公の崇敬も厚く御本殿、拝殿は豊臣秀頼公によって再建されました。
現在は、拝殿のみが残っております。
(現地説明板より)

更に登ると川上地蔵堂があります

川上地蔵堂

川上地蔵堂
遮那王と称した牛若丸(義経公)の守り本尊である地蔵尊が祀られており、
牛若丸は日々修行のときこの地蔵堂に参拝したといわれている。
(現地説明板より)

句碑

句碑
鞍馬の生んだ俳人山本青瓢は、こよなく古郷鞍馬を愛し多くの句を残した。
昭和三十五年 六十八歳で歿。
彼の名声をたたえ後世に残すため有志一同がこの句碑を建立。

火祭や 鞍馬も奥の 鉾の宿 青瓢

(現地説明板より)

川上地蔵堂と道を挟んで向かい合っています。

義経公供養塔

義経公供養塔
八百年あまり前、牛若丸が遮那王と名のり、七歳の頃から十年間、
昼は学問、夜は武芸に励んだときに住まいした東光坊の旧跡である。

義経公供養塔は、牛若丸が7歳から約10年間住んだ東光坊跡に、
昭和十五年に供養塔が建てられた。
(現地説明板より)

緩やかで広い道を登ります。

九十九折れ参道
の始まり

九十九折参道は、清少納言が『枕草子』で
「近うて遠きもの、くらまのつづらおりといふ道」と評した鞍馬寺の表参道である。
(鞍馬山総本山発行パンフレットより)

双福苑

谷に架かる橋を双福橋(そうふくばし)といい両側に祠がお祭りしてあります。
双福橋をはさんだ2つの小堂には、左に大黒天、右に恵比須尊がお祀りしてあり、. この一帯を「双福苑」と呼びます

この橋は、福徳の神である玉杉大黒天(たますぎだいこくてん)と玉杉恵比寿尊(たますぎえびすそん)の二柱の福神を結ぶ橋で、
この一角を双福苑(そうふくえん)と呼ばれています。
玉杉大黒天は、葉の先が玉のように巻いている杉の巨木で、大黒天の化身として、尊崇されて来ました。

五町目の町石(ちょうせき)

本殿金堂まで五町(550m

九十九折参道はつづきます。

四町目の町石(ちょうせき)

本殿金堂まで四町(440m

句 碑

都づらをり まがれるごとに 水をおく やまの清さを 汲みてしるべく 香雲

中 門 (四脚門)
(ちゅうもん)         

中門はもともと山麓の仁王門の横にあって、勅使門(ちょくしもん)または
四脚門(しきゃくもん)と呼ばれており、朝廷の勅使の通る門である。
(鞍馬山総本山発行パンフレットより)

道標によると
登り=本殿金堂:393m、霊宝殿:577
降り=由岐神社:311m、仁王門:602

三町目の町石(ちょうせき)

本殿金堂まで三町(330m

石碑
献木三百口 京都鞍馬愛山会

本殿金堂まで155段
この辺りから本殿金堂までは石段と敷石の道になります。
本殿金堂までの途中に新参道(ケーブルカーからの道)と合流し、
本殿金堂への155段の石段へと続きます。

石段を登ると大正13年12月に貞明皇后さまが、鞍馬山行啓の際に休憩された場所
貞明皇后御休息所跡があります。

貞明皇后御休息所跡

貞明皇后御休息所跡
大正十三年に鞍馬寺へ行啓された貞明皇后さまが、九十九折の坂をお登りになる途中、
しばらくお休みになったところです。
(現地説明板より)

貞明皇后御休息所跡前に町石があります

二町目の町石(ちょうせき)

本殿金堂まで二町(220m

次にお堂がありましたが由緒は不明です

不  明

更に本殿金堂への155段の石段は続きます。

ケーブル「多宝塔駅」からの道と出会います。
石段は左へ曲がり更に登ります。

多宝塔
からの出会い

麓のケーブル「山門駅」で乗った場合、ケーブルで一気200m登って「多宝塔駅」に着き
500mほど歩くとここで九十九折参道に合流します。

          多宝塔と弥勒堂
 多宝塔駅を出るとすぐ右側にあります。
 多宝塔は、かって本殿東側にありましたが江戸時代後期に焼失しました。
 ケーブル開通後の昭和35年に現在地に再建さ、ケーブル工事中に発見された毘沙門天が多宝塔に祀られています。
 多宝塔からの道は「新参道」と呼ばれ、約300メートルぐらいで、途中に弥勒堂があります。
 弥勒堂にはお釈迦さまの滅後、56億7千万年を経てこの世に出現し、人類を救済すると信じられている弥勒菩薩が安置されています。

(鞍馬山総本山発行パンフレットより)

清少納言も登ったそうです。(頑張りましょう!)

更に登ると「巽の弁財天」堂があります。

巽の弁財天
(たつみ)       

巽の弁財天
本殿の東南(巽)の方角にあるので「巽の弁財天さま」と呼ばれ、福徳・知恵・財宝・技芸を授ける神として信仰されている。

更に登ると信徒の休憩所”洗心亭(せんしんてい)”があります。

お茶所
洗心亭

茶所「洗心亭」にいついて
昔から鞍馬詣でには、近くて遠き九十九折の参道を一歩一歩踏みしめながら登りした。
ようやく山頂近くまで辿りつくころ、足も疲れ、喉もかわき「茶所」でひと休み、渇きを癒し心を静めてご本尊にお参りしたものです。
「茶所」は、今ではここ転法輪堂阿弥陀佛のお膝元にあり「洗心亭」として皆様の憩いの場となっています。
お参りのひとときを、この「茶所」でご休息いただき、身も心も清々しく本殿に参進し、
御尊天より活力をお受け下さることを願っています。
鞍馬寺 (現地説明板より)

「洗心亭」の向かいに「寝殿」があります

寝 殿

寝殿
この寝殿は、大正十三年に木曽の御料林の檜を御下賜を得て、平安時代の寝殿造を忠実に型どって建立され、
同年貞明皇后さまが行幸された折、ご休息された建物である。
昭和四十一年に一部増改築され、今は毎年八月一日より三日間奉修される「如法写経会」の道場となっている。
(現地説明板より)

やっと九十九折れ参道の石段を登り「本堂金堂」の境内へ上り切りました。

境内へ登ると最初に右側に転法輪堂があります。

転法輪堂
(てんぽうりんどう)

画像なし

 転法輪堂は、ご先祖に感謝の祈りを捧げる道場で、1丈6尺の阿弥陀仏が安置されています。
 また、「一転の南無阿弥陀仏、その功徳六万遍の称名に等し」が、この転法輪堂の名の由来です。

 重怡上人(じゅういしょうにん)が平安時代に、13年間堂内に籠り毎日十二万遍の弥陀宝号を唱え続け、六万遍の弥陀宝号を書いて法輪に納めたといわれています。

次に奥の方に閼伽井護法善神社がありましたが気付きませんでした。

閼伽井護法善神社
(あかいごほうぜんじんじゃ)

                    (本殿金堂の右奥に写っています)
 閼伽井護法善神社(あかいごほうぜんじんじゃ)は、本殿金堂の右隣にあり水の神様です。
 千年ほど昔に、修行中の峯延上人(ぶえんしょうにん)を襲った大蛇の討ち、
   雄蛇は斃されて「竹伐り会式」の由来となり、
   雌蛇は本尊に捧げるお香水を永遠に絶やさぬと誓い、  ここに祀られた。
                      

(鞍馬山総本山発行パンフレットより)

本殿金堂は、大きい!

本殿 金堂

本殿金堂は、千手観音菩薩・毘沙門天王・護法魔王尊を奉安する鞍馬山信仰の中心道場です。

 また、本殿の地下は宝殿と呼ばれ、松久朋琳大佛師により彫成された三尊尊天像を中心に、鞍馬山の尊天信仰に生きることを誓った、 信徒の清浄髪(しょうじょうはつ)がお祀りされています。

 本殿金堂前の広々とした前庭の石畳は”金剛床(こんごうしょう)”といい、
 鞍馬山の教えの理想、宇宙の力を秘める人類が宇宙と一体化する、ということを表現しているそうです。
 また本殿前庭よりはるか比叡の峯々を眺めは素晴らしいものです。
                                 (現地説明板より)

金堂前の両脇にやはり「狛犬」でなく「阿吽の虎(あうんのとら)」があります。
虎は御殿に祀られる毘沙門天のお使いであるといわれる神獣で、毘沙門天ご出現が、虎の月・虎の日・虎の刻であったことから、
鞍馬山では特に大切にされています。
(鞍馬寺入り口(仁王門前)も、阿吽の虎です。)

境内には翔雲台があります。

翔雲台

翔雲臺
鞍馬山は北方守護の浄域である。
擁護授福のため本尊ここに降臨ありて、はるか平安京をみそなわし給う。
中央の板石は本殿金堂の後方より出土したもので、平安時代より鞍馬寺に伝えられた
如法写経会の経巻を埋納した経塚の蓋石である。
板石の下から発掘された経塚遺物二百余点がこyごとく国宝に指定された。
(現地説明板より)

本殿金堂の西側が光明心殿があり、そのまた西が本坊・金剛寿命院です。

光明心殿
(こうみょうしんでん)

光明心殿(こうみょうしんでん)
光明心殿は、護法魔王尊が祀られており、護摩供を修する道場です。

光明心殿の中に、護法魔王尊が祀られています。
木の杭で囲まれている所が、初寅大祭等の護摩供養に使われる場所ます。
(現地説明板より)

(光明心殿の上奥に「鐘楼」が見えます。後ほど行って見ます)

その西が本坊・金剛寿命院です。

本坊・金剛寿命院
(ほんぼう・こんごうじょみょういん)

この建物は山を利用して四階建て
本坊金剛寿命院は、鞍馬寺寺事務所や鞍馬弘教宗務本庁が置かれています。

瑞風庭(ずいふうてい)
玄関前にある庭は、六五〇万年前人類救済の大使命を帯びた護法魔王尊が金星より「焔の君たち」を従えて、
今まさに聖地・鞍馬山に降臨せんとする相を形象化したものおである。
北庭の白砂盛は魔王尊の乗物「天車」を意味する。
南庭は、組井筒と大刈込によって鞍馬山を表現し、石組は魔王尊を表わすと共に奥の院の盤座を象徴している。
(現地説明板より)

門をくぐり抜け奥之院参道へ進みます。

奥之院参道

足の弱い人用に手水場が「奥の院遥拝所」となっています。

奥の院まで長い石段が続きます。

石段の途中から「鐘楼へ向かう道が分かれています。

鐘 楼

少し登ると「鐘楼が見えてきます。

鐘楼
梵鐘は「漢文十年(1670)」の銘文をもち「扶桑鐘銘集」にも紹介される名鐘である。
毎年、除夜の鐘を撞(つ)く人が列をつくる。
(現地説明板より)

奥之院参道

句  碑

與謝野 寛 晶子 歌碑
何となく君に またるるここちして いでし花野の 夕月夜かな     晶子
遮那王が 背くらべ石を 山に見て わが心なほ 明日を待つかな   寛 
(現地説明板より)

鞍馬寺の宝などを収容展示した建物です。

霊宝殿

鞍馬山霊宝殿
鞍馬山に生息する動物や植物、秘仏や国宝の仏教美術品等が展示され、
与謝野鉄幹・与謝野晶子の遺品等を展示した、与謝野記念室がある。
1階 「鞍馬山自然科学博物苑展示室」
2階 「寺宝展観室」           
3階 「仏像奉安室」           
入館料

大人¥200  子供¥100
開館時間 AM 9:00  PM 4:00  月曜休館。

霊宝殿を過ぎると茶室「冬柏亭」があります。

冬柏亭
(とうはくてい)

冬柏亭(とうはくてい)

冬柏亭は、與謝野晶子さんの書斎で、東京の與謝野邸にあったもの。
(鞍馬山総本山発行パンフレットより)

冬柏亭(とうはくてい)の横に、御山に入る門があり、さらに奥の院へと進みます。

次に「義経公息継ぎの水」が見えてきます。

義経公息継ぎの水

義経公息継ぎの水
牛若丸が毎夜 奥の院 「僧正が谷」へ剣術の修行に通ったとき、この清水を汲んで喉をうるおしたといわれる。
(現地説明板より)

屏風(びょうぶ)
革堂
(こうどう)の地蔵尊

さらに参道を登ります

奥之院参道

鞍馬山の山頂に義経背比石があります。

源義経公背比石

源義経公背比べ石
遮那王と名のって十年あまり鞍馬山で修行をしいた牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衡の許に下るとき
名残を惜しんで背を比べた石といわれている。
波乱に富んだ義経公の生涯は、この石に始まるといえよう。

遮那王が 背くらべ石を 山に見て わがこころなほ 明日を待つかな  與謝野 寛
(現地説明板より)

「源義経公背比べ石」の前にもう一つ石の碑があります。

左魔王尊影向大杉道とあり「大杉権現社」への道です

この奥に「大杉権現社」があります。

時間が無いので引き返し元の参道へ戻りました。

奥之院参道

参道をしばらく進んでも、また大杉権現への案内碑があります。

更に参道を下ると僧正ヶ谷不 動 尊に出ます。

僧正ヶ谷
不 動 尊

僧正が谷不動堂
堂内の不動明王は、比叡山開祖伝教大師がここに参篭なさったときお刻みになったと伝えられる。
また牛若丸が鞍馬天狗より兵法を学んだ舞台はこのあたりであるという。
(現地説明板より)

すぐ上に義経堂があります。

義経堂

義経堂
歴史には文治五年(1189)四月、奥州衣(きぬ)川の合戦にて自害したと伝えるが、義経公の御魂はこの山におわし
遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正のお働きを助けておられるという。
この義経堂には遮那王尊をおまつりする。
(現地説明板より)

謡曲「鞍馬天狗」と
僧正ヶ谷

謡曲「鞍馬天狗」と僧正ヶ谷
謡曲「鞍馬天狗」は、源義経幼時の武勇説話を現代風に脚色した曲である。
鞍馬山の東谷の僧が、西谷の花見の招きを受けて修行中の稚児平家の公達や牛若丸を連れて出かけたが、
見知らぬ山伏が来たので気を悪くして帰ってしまった。
ただ一人残っている牛若丸の素性を知り、憐れんだ山伏は諸所の花の名所を案内し
「自分は大天狗である、平家討滅の望みの達せられるように兵法の秘伝を授けよう」といい、
翌日からはげしい修行の末、約束の如く兵法を授け再会を約して大天狗は立ち去ったという豪壮な物語である。
僧正ヶ谷は牛若丸が天狗僧正坊から武芸を習った処で、
老杉高く聳え、巨根を這って昼なお闇く神秘感をただよわせている。
(謡曲史跡保存会)

木根の根道

木の根道
鞍馬山霊宝殿から奥に続く道で古い岩盤に木が根をはっているため、
木の根が浮き出て複雑な模様を描いている道です。

 

大杉権現

(画像なし)

 大杉権現社は、樹齢千年に近い杉の巨木で、「護法魔王尊影向(ごほうまおうそんようごう)の杉」として古くから尊崇され、多くの人々の信仰を集めています。
(鞍馬山総本山発行パンフレットより)

 

奥 之 院

奥の魔王院
650万年前に金星からやってきた魔王を祀っている。 
毘沙門天や、千手観音などが安置されているが、鞍馬弘教による解釈は独自である。

奥の院
奥の院は鞍馬山随一の聖地で、大杉権現、僧正が谷不動堂、魔王殿などの堂宇のほか、
不動の滝や息継ぎの水、背比べ石、兵法場などの義経公ゆかりの遺跡などがあり、木の根の参道はいかにも鞍馬らしい。
(現地説明板より) 

       奥の院魔王殿(おくのいんまおうでん)

 奥の院魔王殿は、磐座(いわくら)・磐境(いわさか)とも称され神々が降臨された場所として崇拝され、太古より宇宙の力が満ち溢れ、その波動がご開山・鑑禎上人(がんていしょうにん)を初め多くの修行者を鞍馬山へと導き、宇宙の真理に目ざめさせたといわれています。(現地説明板より)

奥の院魔王殿で昼食

帰 路

やっと西門が見えてきました。

西 門

西門
西門は貴船側から鞍馬山への参拝口で、西門前の小橋を渡ると鞍馬本町へ出ます。

鞍馬本町通り

名物の「貴船の川床」が並んでいます。

坂を進むと「貴船神社」が見えてきます。

「川床」へ料理を運ぶ人が忙しそうです。

貴船神社

貴船神社マップ
地図の下右方の鞍馬山西門から貴船神社から結社そして貴船神社奥宮マップ

鞍馬山の西門を出て貴船川に沿って遡ると貴船神社の鳥居が見えてくる。

                      貴船神社
 創建の年代は不詳であるが、社伝では反正天皇の時代の創建としている。社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まると伝えている。
 社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「御船型石」が、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝える。「気の産まれる根源」が転じて「気生根」になったともいう。

 白鳳六年(666年)に、最も古い社殿造替えの記録がある。日本後紀に、延暦十五年(796年)、東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に貴船神社の神が現れ、鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されている。

 延喜式神名帳には「山城国愛宕郡 貴布禰神社」として記載され、名神大社に列している。後に二十二社の一社とされ、保延六年(1140年)に最高位の正一位の神階を授けられている。

 永承元年(1046年)7月、出水により社殿が流失し、天喜三年(1055年)、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。
 当社は長らく賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされてきたが、これは天喜3年の社殿再建が契起となっているとする説がある。
 近世以降、それを不服として訴えが続けられ、明治以降になってようやく独立の神社となった。江戸時代までは賀茂別雷神社の祭神である賀茂別雷命も祭神としていた。
                              (ウィキペディアより)

画面の右方の門が奥宮への門です。

龍船閣

女性に人気

貴船神社の
水占
(みずうら)斎庭

                 水占(みずうら)みくじ

 貴船神社は水の神さまであることから、境内の霊泉に浮かべると水の霊力によって文字が浮かんで見えてくるおみくじがあります。
 水に浮かべる前には文字が見えないので、他の神社のおみくじのようにくじを引いて番号を言うのではなく、箱の中から好きな1枚を選ぶようになっています。
 尚、おみくじが乾くと再び文字が見えなくなります。1枚 200円
                            (ウィキペディアより)

結社(ゆいのやしろ)は、本宮と奥宮の中間、本宮から上流側300メートルの場所にあります。
(奥社は、またその奥400mの場所にあります)

縁結びの神として女性に人気のある結社(ゆいやしろ)は貴船本宮から300mほどの場所にある。

結 社
(ゆいやしろ)

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                                結社
 結社(ゆいのやしろ)は、本宮と奥宮の中間、本宮から上流側300メートルの場所にある。その立地から中宮(なかみや)とも呼ばれている。
 磐長姫命を祭神とし、縁結びの神として信仰される。磐長姫命が縁結びの神とされることになった理由として次のような伝承がある。天孫瓊瓊杵尊が磐長姫命の妹の木花開耶姫と結婚しようとしたとき、姉妹の父の大山祇命は、磐長姫命も共に奉った。しかし、瓊瓊杵尊は木花開耶姫とだけ結婚したので、磐長姫命はそれを恥じ、「縁結びの神として良縁を授けん」と言って当地に鎮まったという。
 以前は、境内の細長い草の葉を結び合わせて縁結びを願っていたが、現在は植物保護のため本宮で授与される「結び文」に願文を書いて指定場所に結ぶことになっている。
 境内には、「磐長姫命の御料船」として平成8年に奉納された船形の自然石「天の磐船」が置かれている。
また、後述の和泉式部の歌碑がある。(ウィキペディアより)

結社からさらに上流へ400メートルほど登ると貴船神社奥宮があります。

奥 宮

鳥居をくぐり橋を渡り、参道を奥へ進みます。

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鼓ヶ岩

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奥宮境内の門

奥 宮
今は「奥宮」ですが以前は、ここが本宮だったそうです。

奥宮の更に奥にこの地へ最初に来た反正天皇(390年)の時代、玉依姫命が黄船に乗って
浪速から淀川・鴨川へ上陸したところに水神を奉り祠を建てたのが始まり。

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船形岩
奥宮本殿の西側にあり、船の形をしています。
 神武天皇の母神様・玉依姫さまが浪速(今の大阪)より水源の地を求め、黄色の船に乗って鴨川をさかのぼり、上流である貴船川のこの地に至られたとき、乗ってこられた船を人目に触れないように小石で積み囲んだと伝えられています。
 (ウィキペディアより)

貴船神社の通りに並ぶ貴船の川床は

貴船の川床
(きぶねのかわどこ)

                                  貴船の川床
 「川床」は桃山時代に京都のほぼ真ん中を流れる鴨川に桟敷を設け、客をもてなしたのが始まりといわれています。
 貴船の川床は「かわどこ」と読みます。
 貴船は「京の奥座敷」と言われることから「床(とこ)の間」と同じ感覚で「川床(かわどこ)」と呼ばれるようになりました。
                                 
(ウィキペディアより)

疲れました。