静岡県掛川市長谷(日坂宿・小夜の中山峠)
(2012.03.16)

   「日坂宿」は往時、大変賑わった宿街道でしたが、明治以降、町の外側へ国道1号線が通り、
その国道1号線もバイパスとなり町の上を高架で抜けるようになり外来者はほとんど訪れることなく
世の発展に取り残されたさびれた町(宿場跡)になったようです。

日坂宿
(にっさか)   

                    「日坂」は西坂から
       日坂(にっさか)
小夜の中山の西の坂「西坂」から来ていると言われています。

  (「日坂宿」日坂地域振興の会より)

                   日坂宿全体のの印象
 宿場としては宿の入り口に復元「高札場」はあるものの、宿中の「本陣」は小学校になって門を残すのみ、その本陣も宿場が小さかったためか宿屋(扇屋)を兼ねていたり(本来本陣は大名以外泊めてはならない掟になっていた)そのため「脇本陣」も旅籠を兼ね「黒田屋」として営業していたようです。
 荷役を仲立ちする「問屋場」も立札のみで、木戸跡も立札のみで江戸時代末期の旧家も数軒のみで今は訪れる人も少ないようです。

日坂宿は「事任(ことのまま)八幡神社」から始まります。

何でも願いが叶う
事任八幡宮
(ことのまま)         

社務所があり巫女さんも居ます。無料駐車場にトイレもあります

               御由緒
 創立年代未詳 大同二年(807)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)東征の際 桓武帝の勅を奉じ 旧社地 本宮山より現社地へ遷座すという。(後ほど通る東海道脇に「本宮入口」がそれです)
 延喜式(927)神明帳に佐野郡己等乃麻知(ことのまち)神社とあるのはこの社なり 
 古代より街道筋に鎮座 遠江に座す願いことのままに叶うありがたき言霊の社として、朝廷を始め全国より崇敬されしことは平安朝の「枕草子」に記載あるを見ても明らかなり。
 世が貴族社会より武家社会に移るや八幡信仰が一世を風靡し、康平五年(1062)源頼義が石清水八幡宮を当社に勧請し、以来八幡宮を併称す。
 江戸期に入りては、徳川幕府も当社を信仰し社殿を改築、朱印高百石余を献上す。
 明治以降 県社八幡神社と称したが、第二次大戦以後の社格廃止に伴い、由緒ある名「事任(ことのまま)」を復活し、現在は事任神社と称す。
                             (神社説明板より)

事任八幡宮から国道1号を横断し「日坂宿」へ入る

本 宮 山

先ほどの「事任八幡宮」の旧殿があった所
 大同二年(807)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)東征の際 
桓武帝の勅を奉じ 当社地 本宮山より先ほどの社地の「事任八幡宮地へ遷座す」という。

大正四年に建てられた日坂村と東山口村との「村界碑」

村 界 碑

村の境界で揉め事でもあったのでしょうか?!

少し宿内へ進むと若宮神社鳥居脇に「秋葉常夜燈」があります。
日坂宿は何度も大火に見舞われ宿内には何基もの「秋葉常夜燈」がありましたが現在は三基残っています。

若宮神社秋葉常夜灯

若宮神社の由来はわかりません

          秋葉常夜灯
 日坂宿はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防=ひぶせ)の秋葉信仰が盛んであったようです。
 当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講を結成し分社や常夜燈をなどを各所につくりました。
 秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる灯りをともすためのもので、辻などにの人目につきやすい場所に建てられました。
 日坂宿には弘化二年(1845)に建立された、この常夜燈の他に、本陣入口と相伝寺境内の計三基が遺っております。
 秋葉山のほかに「駅中(宿内のこと)安全」とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示していると言ってもよいでしょう。
                (現地説明板より)

天保十一年1840=明治になる30年前)の宿場の家並み

(「日坂宿」日坂地域振興の会より)
これ以降HPで紹介する家は赤枠で表示してあります。
宿の入り口が下方ですので下から順に歩きました。

宿へ入ってしばらく進むと東側に「三河屋」の看板が残る家があります。
ここが有名な書家「成瀬大域」の出生の家です。

賜硯堂成瀬大域
出生の地
(三河屋)

          賜硯堂成瀬大域出生の地
 書家・成瀬大域(成瀬温)は文政十年(1827)古宮のこの地で生まれました。
 42歳のとき上京、安井息軒の門に入って書を修めました。
 宮内省に奉職していた明治十二年(1879)王義之の聖教序を臨書するとともに諸葛孔明の出師表を楷書と草書の二幅に書き、併せて明治天皇に献上しました。
 天皇よりお褒めの言葉とともに楠木正成愛用と伝わる古い硯を賜りました。
 このことから庵と自らを「賜硯堂」と称しました。
 明治三十五年(1902)没。 七十六歳でした。
 なお、この先の旅籠「川坂屋」襖に大域の書、また法讃寺境内には大域が筆を執られた暁心翁之碑があります。
 また、この古硯は平成十四年(2002)遺族より、十体の書が書かれた面扇とともに掛川市 「二の丸美術館」に寄贈されました。
                       (現地説明板より)

さらに進むみ川を渡り欄干の脇、西側に「下木戸跡」の碑が見えます。

下 木 戸 跡

          下木戸(しもきど)跡
 江戸時代、宿場の治安維持のため、東西の入り口には木戸が設けられていました。
 大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では川が門の役目を果たしていましたので木戸は無かったようです。
 古宮橋に架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったときは、宿場の治安維持のため橋をはずしたとも伝えられています。
 また、宿役人の管理下にあった高札場が木戸の機能を果たしておったという説もあります。
                    (現地説明板より)

「下木戸」の上に「高札場跡」があります。

高 札 場

                   高札場
 幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、その掲げられた場所を高札場といいます。
 高札場は人々の注目を引きやすい所に設置され、日阪宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場ともいわれていました。
 高札場の内容は日坂宿が幕領であったため公儀御法度(幕府法)が中心で年代によって若干の書き替えがありました。
 ここに掲げられている八枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復元しました。
 高札場の大きさ「高さ二間、長二間、横七尺」は日坂宿の「御尋二付申上候」書付(天保十四年)によりました。
                            (現地説明板より)
                   高札小史
 ◎正徳元年(1711)日坂宿の高札場設けられる。 このとき高札五枚(親子切支丹=キリシタンキリスト教   のこと・火付=放火のこと・伝馬・毒薬は幕末まで続いた。
 ◎慶応四年(明治元年・1868)太政官布告により従来の高札を撤去し新たに五枚の高札(五傍の掲示)を掲   げた。
 ◎明治六年(1873)高札が法令公布の方式としては適さないとの見地から撤去された。
                             (現地説明板より)

さらに宿内へ進むと二基目の秋葉常夜燈があります。

秋 葉 常 夜 灯

               秋葉常夜灯
 日坂宿はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防=ひぶせ)の秋葉信仰が盛んであったようです。
 当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講を結成し分社や常夜燈をなどを各所につくりました。
 秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる灯りをともすためのもので、辻などにの人目につきやすい場所に建てられました。
 日坂宿には天保十年(1839)に建立された、この常夜燈の他、本陣入口と古宮公会堂脇の計三基が遺っております。
 秋葉山のほかに駅中安全とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示していると言ってもよいでしょう。
                        (現地説明板より)

次に街道の東には公家・武士などが宿泊した旅籠「川坂屋」があり見学可能です。

旅籠 川 阪 屋

             川坂屋
 大阪の陣(慶長十九年・1614の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七郎源重吉は長松院で手当てを受け、その後、日坂に居住しました。
 旅籠屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間(17891800)に問屋役を務めたこともある斉藤次右衛門が始めたとも伝えられています。
 現在の建物は宿場の殆どが焼失した嘉永五年(1852)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。
 また、「川坂屋」には脇本陣などと云う肩書きの付いた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられていることは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。
 旅籠屋としては本陣と同じ明治初頭に廃業したようですが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・巌谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以降も要人には宿を提供していたと思われます。
 その後、平成五年(1993)まで斎藤家の住居として使われ、平成十二年(2000)修理工事が竣工し、現在に至っております。
 敷地は三百余坪がありましたが、昭和二十五年(1950)の新国道開通で東海道が分断され、その後、平成7年(1995)のバイパス工事により明治元年(1868)に掛川城主太田候より拝領した「元掛川楷書楽園茶室」も移転を余儀なくされました。
 茶室は平成十五年(2003)母屋の北側の地に復元されました。

 文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳には「川坂屋」につて次のように記されています。

        間口   六 間
        畳    五拾八畳半
        板鋪   六 畳
        奥行   参拾間
           惣畳数    〆六拾四畳半
           惣坪数    〆七拾八坪
    旅籠屋  次右衛門
                           (現地説明板より)

天保十一年1840=明治になる30年前)の宿場の家並み

(「日坂宿」日坂地域振興の会より)

「川阪屋」の向かいには商人などが利用した旅籠「萬屋」があります。

萬   屋

                萬  屋
 江戸時代末期の旅籠、嘉永五年(1852)の日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されました。
 再建時期についての明確な資料はありませんが、建物内部の構造体や壁に貼られた和紙に書かれていた「安政年間(18541859)丙辰(ひのえたつ)正月・・・・」から考えまして、安政年間(18541859)のしかも早い時期かと思われます。
 同じ宿内で、筋向かいの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした。
 一階に裏手に抜ける通り土間がないこと、台所が不明であること、二階正面の出格子が二階床と同じ高さで、腰高の手すりが付き、大変開放的であることなどが、この旅籠の特徴です。
 又、一階正面の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店構えの仕様であり、日阪宿では昭和二十年代まで数多く見られました。

 尚、文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳(古文書)には「萬屋」について次のように記されています。
  
        間口   四間半
        畳    三拾三畳
        板鋪   六  畳
        奥行   七間半
           惣畳数    〆三拾九畳
           惣坪数    〆三拾三坪七合五厘
    旅籠屋  嘉  七

                           (現地説明板より)  

その他宿内には多くの商家・旅籠があり現在もかっての屋号を残した看板が架かっています

その他の宿・商家

                    日坂宿の記録
 天保十一年(1843)頃の記録によると日坂宿には旅籠屋が三十三軒(大きな旅籠が三軒・中が二十二軒・小が八軒)。
  本陣(大名が宿泊や休憩する陣屋を兼ねた施設)本町に一軒、凡建(平屋)で坪数二百二十坪・門構で玄関付。
  脇本陣(大名が複数のときの用意の施設)本町に一軒、凡建(平屋)で坪数八十六坪・門構で玄関付。    
                                                           天保十四年卯年改
                (「日坂宿 茶と歴史の里 日坂へようこそ」 日坂地域振興の会)より
稲 葉 屋 文 七 屋
畳 屋 松 田 屋

宿内の街道は現代は静かです

木 蘭 屋 丸 橋 屋

日坂宿の3分の1くらいの所に「角長」があり、その隣が「藤文」です

角 長

角 長

「角長」の隣が「藤文」です。

藤  文

        藤文・・・日坂宿最後の問屋役を努めた伊藤文七邸(中を見学できるようです。)
 商家で屋号は藤文
 伊藤文七(号は文陰)翁は安政三年(1856)に日坂宿年寄となり、万延元年(1860)から慶応三年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。
 維新後の明治四年(1871)には、日坂宿他二十七ヶ村の副戸長に任ぜられました。
 その間、幕府の長州征伐に五十両を献金、明治維新のときは官軍の進発費として二百両を寄付しております。
 明治四年(1871)の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を自宅・藤文に開設、取扱役(局長)に任ぜられました。
 日本最初の郵便局の一つと云われています。
 その孫。伊藤文一郎氏は明治三十七年(1904)から三十九年(1906)、大正六年(1917)から八年(1919)、昭和三年(1928)と三期にわたり日坂村長を務め、当時珍しいガソリン式消防ポンプを村に、世界一周旅行記念として大地球儀を小学校に寄贈するなど村の発展や村民の国際意識啓発に尽力しました。
 明治九年(1876)十一月には昭憲皇太后、翌十年(1877)一月には英照皇太后が日坂宿御通過の時、ここで休息なされました。
 この建物は藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された蔵は当時何棟かあったと云われているうちの一棟です。
 この土地・家屋は平成十年(1998)に文七翁の曾孫伊藤奈良子さんの遺志により掛川市に寄贈されました。

 文久二年(1862)の宿内軒並取調帳では今の伊藤家は藤文・かえで屋に分かれておりました。 

                               (現地説明板より) 

古地図によると「藤文」の十軒先が脇本陣「黒田屋」です。

脇本陣「黒田屋」

残念ながら脇本陣「黒田屋」の画像はありません
(撮り忘れました)

脇本陣「黒田屋」の次が「池田屋」です。

池 田 屋

現役の宿「池田屋」

宿内の上部の道がカーブする辺りです。

(「日坂宿」日坂地域振興の会より)

さらに進むと問屋場跡があります

問 屋 場 跡

現在の問屋場跡は空き地と庭になっています、
荷役に使う馬は奥にあり、古地図では写真奥の2軒新宅あたりが「うまや」だったと思われます。

                 問屋場(といやば)跡
 宿場では、幕府などの貨客を宿場から次の宿場へ継ぎ立てることになっており、そのための人馬の設置が義務付けられていました。
 宿駅でこの業務を取扱う職務を問屋、その役所を問屋場と言います。
 問屋は宿内で最も大切な役職でした。
 日坂宿の問屋場はかってこの場所にあり、「東海道宿村大概帳」によると、日坂宿の宿役人は問屋一人・年寄四人・請払二人・帳付五人・馬指三人・人足割三人・同下役六人です。(計24人=小さな宿で人件費だけでも大変!)
 問屋場へは問屋・年寄をはじめ宿役のものが毎日交代で1人ずつ詰め、重要な通行があった時には全員で業務に携わったとのことです。
 当時の建物、その他の遺物は現存しません。
                         (現地説明板より)
 

  この宿毎に荷物を積み替える継ぎたて制度は荷主には時間と費用の浪費で経済活動の妨げとなり
  江戸時代後半には中馬(ちゅうま)制度もでき出発地から到着地まで同じ馬方で荷物を運べる制度が
  でき経済活動が活発化しましたが、宿の問屋場は経営が成り立たなくなり、大変困ったようです。

問屋場跡から「蛭(ひる)子屋」「玉屋」「大黒屋」の隣が本陣扇屋跡です。

本 陣 跡

                  本陣跡
 江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。
 日阪宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。
 本陣の敷地はおよそ三百五十坪・建坪二百二十坪、門構・玄関付の建物でした。
 嘉永五年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治三年(1870)に店を閉じました。
 その後の学制頒布に伴い、明治十二年(1879)より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しません。
                     (日坂地域振興の会・日坂宿おこし委員会)
                          (現地説明板より)
 

本陣跡横に3基目の秋葉常夜燈があります。

秋 葉 常 夜 灯

                秋葉常夜灯
 日坂宿はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防=ひぶせ)の秋葉信仰が盛んであったようです。
 当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講を結成し分社や常夜燈をなどを各所につくりました。
 秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる灯りをともすためのもので、つじなどにの人目につきやすい場所に建てられました。
 日坂宿にはここ本陣入口の常夜燈の他、相伝寺境内と古宮公会堂脇と当時三基が建っておりました。
 ここの常夜燈は安政三年(1856)の建立でしたが、老朽化が進みましたので平成十年(1998)に撤去し、改めて復元いたしました。
 秋葉山のほかに駅中安全とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示していると言ってもよいでしょう。
                         (現地説明板より)

宿のはずれへ出ると旧国道1号線(現在は県道)へ出ます。
上の高架が現在の国道1号線=日坂バイパスです。

上 宿 口

宿口付近は坂になっていて、ここから旧街道の「二の曲り」へ続きます。

次は「二の曲り」坂を登り「小夜の中山峠」へ向かいます。

小夜の中山峠

道順
地図左が日坂宿口で旧国道を横断して「二の曲り」へ差し掛かります。(中山峠まで2700mです)
「沓掛稲荷」まで来ると急坂は終わり平坦な坂になります。(中山峠まで2100mです)
地図の中央辺りの「馬頭観音」が峠までの中間点です。(中山峠まで1400mです)
久延寺前には無料トイレがあります。
(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会より)

小夜の中山は歌碑・句碑の名所と    
           伝説・歴史の道でもありました。

           歌碑・句碑の名所
 
「二の曲り」から峠までに歌碑・句碑は全部で十六碑あります。
    これは、西行法師が
              年たけてまた越ゆべしとおもひきや
            命なりけりさやの中山
 と詠った歌で、その時西行法師は六十九歳で当時としては老人の域に達した年齢   でした。
 この歌は、
文治三年(1186)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡(ひでひら)を訪ねる途中で、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものです。
 西行法師は二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年六十九歳の作です。
 小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていましたが、この一首は歌枕としての小夜の中山の名を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれれようになりました。
 当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)を越えることすら相当の旅行であったといいます。
 西行の奥州までの旅は大変なものであったと当時の人も感じたことでしょう。
 古代からの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれるてから六年後の鎌倉幕府の開設以降です。
                     (以上 現地説明板より)
 この歌のお陰で古代から江戸期まで多くの歌人が、この峠を中心に詠った歌の碑を峠道に並べている歌碑・句碑の名所です。

 

 

 

 

                  伝説・歴史の道
          この峠道には歌碑・句碑のほか伝説と歴史に関する碑や跡などは十ヶ所に及びます。一部紹介
 「壱」、妊婦の墓伝説
(年代は、言い伝え中に弘法大師=宝亀五年(774)〜承和二年(835)=が出てくるので一番古い伝説と思われます)

 「妊婦の墓」は「涼み松広場」の向かいにあります。
  ◎ この墓は、蛇身鳥退治(後ほど「馬頭観世音碑」で説明
します)で有名な「三位良   政」と月小夜姫の間に生まれた「小松姫」の墓で小松姫が妊娠していた身で、ここの   松の根元で自害して葬られたので「妊婦の墓」と言われています。
  ◎ 諸先輩方のHPなどから断片的な情報を頂くと「月小夜姫」は娘「小松姫」を主計輔   に嫁がせようとしたが、既に子を宿していたため婚姻を諦め、無事男の子を生んだが、   わが身の不幸を案じて、この地の松の木の下で自害した。(しかし、墓は「妊婦墓」?)
  ◎ もう一つの説は「蛇身鳥退治」の「三位良政郷」の遺児で結婚を苦にして松の根元   で自害した「小松姫」の墓で、「小松姫」は妊娠していたので「妊婦の墓」と言われるよう   になった。
  ◎ 
その昔、小夜の中山に住むお石いう女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の   丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいるところへ、轟業右衛門という者が通り   かかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
   その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあっ   た丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。
    里人はおそれ、誰言うとはなく、その石を、「夜泣石」と言った。
   傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な   若者となり大和の国の刃研師の弟子となった
    そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数   年前小夜の中山の丸石の付近で、妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言った   ので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
    その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言   う。  文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より
                  (フリー百科事典ウィキペディアより)
                (静岡県 掛川市観光ガイドブックより)

 

 

 

 

 」、馬頭観世音碑伝説
     
(三位良政郷が登場するので「妊婦の墓と同時代と思われる)
   
蛇身鳥退治」のため京より下向してきた「三位良政郷」が乗った愛馬を葬った所と   言われている

                  ( 現地説明板より)

 

 

 

 「参」、夜泣石伝説(東海道「夜泣き石跡」「久延寺夜泣石」、旧国道1号小夜ト                 ンネル東口脇「夜泣石」)
     
(弘法大師が登場するので「妊婦の墓と同時代と思われる)
  
 その昔、小夜の中山に住むお石いう女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸  石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる   ところへ、轟業右衛門という者が通  りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
   その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあっ  た丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。
   里人はおそれ、誰言うとはなく、その石を、「夜泣石」と言った。
  傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若  者となり大和の国の刃研師の弟子となった。
   そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年  前小夜の中山の丸石の付近で、妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったの  で、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
   その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号「往古懐妊女夜泣松三界  万霊・・・旧跡」をきざみ、立ち去ったと言う。
    文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より とあり後半の敵討ちは講釈師の創作のよう  な気がします。           (現地説明板より)

 

 四」、鎧 塚
     
(中先代の乱=建武二年(
1335)の頃の歴史)
   
建武二年(1335)北条時行の一族名城太郎邦時が「中先代の乱」のおり京へ上ろう  として、この地に於いて別所一族の今川頼国と戦い、壮絶に討ち死にした。
   頼国は、名越邦時の武勇をたたえ、ここに塚をつくり葬ったと言われる。
                      (現地説明板より)

旧国道を横断して街道へ入るといきなり急坂になります。

小夜の中山峠口

我々を追い越した軽バンがあえぎながら登っていきました。
                「二の曲り」と「沓掛」
 「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの旧カーブを指しています。
 「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ=馬用の草鞋)を山の神などに手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因(よ)るといわれています。
                            (現地説明板より)
         東海道五拾三次 日阪
                     浮世絵版画  安藤広重作
                                 狂歌入り東海道
                                                       倭園琴桜
 「あたらしく 今朝にこにことわらび餅 をかしな春の 立場なるらん」
                
 
 江戸時代末期になると、江戸を中心として諸国への街道が整備され、物見遊山の旅が盛んに行われ、庶民の関心がそれまでの享楽の場から戸外へ移るにつれて風景画が多く描かれるようになった。
 この浮世絵は、広重が天保三年(1832)「保永堂版 東海道五拾三次」に続き、天保三年(1842)頃に、視点を変えて風景をとらえた「狂歌入東海道」の日阪である。

                               (現地説明版より)

「二の曲り」を振り返ると、その急坂にはビックリします。

最初の句碑は読人不知(よみびとしらず)句碑です。

読人不知句碑

句碑の位置
下図の左方「至 掛川宿」の文字の下方Jの位置です。(久延寺まで2,600m

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

    「甲斐が嶺を さやかにみ見しが けけれなく 横ほり臥せる さやの中山」
                               読人不知
 
      
                                (現地説明版より)

道端の壊れた道標

 国道一号   小夜の中山公園 と読めます。

難所「沓掛(くつかけ)の「二の曲り」も過ぎて快調な旧東海道を久延寺目指して進みます

茶畑に囲まれて
昼  食

(「掛川観光マップ」掛川誌商業労政観光課パンフより)

昼食は見晴らしの最高、茶畑の絶景ポイントで

東海道五十三次 日坂 のカラー陶板碑です。

広重の絵碑
東海道五十三次
日 坂

絵碑の位置
下図の左方広重の絵碑」の位置です。

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

浮世絵「東海道五拾三次 日坂」
当時は東海道の真ん中に「夜泣石」は転がっていたようです。
(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

              東海道五拾三次 日坂
                           
浮世絵版画 安藤広重作
                                   保永堂版 小夜の中山

 広重は天保三年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅しましたが、その体験や印象を描いた「保永堂版東海道五拾三次」はたいへんな好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。
 その中で特にすぐれていると思われるものは、天保十三年(1842)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。
 これらの読絵のなかの日坂、掛川を見ると、日坂はほとんど小夜の中山と夜泣石が描かれており、掛川は大池の秋葉山一の鳥居と常夜灯が描かれている。
 広重が掛川を旅して、一番印象的で絵になる風景だったのであろう。
                           (現地説明版より)

「夜泣石」のあった辺り

この画像の真ん中辺り
この画像の真ん中辺りが広重の浮世絵「東海道五拾三次 日坂 」絵にある
「夜泣石」に位置です。  道の右に見えるのが「夜泣石跡」です。

次は有名な「夜泣石」です。

夜泣石跡

石碑の位置
下図の広重の絵碑の文字の下夜泣石跡」の位置です。

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

                 夜泣石跡
 妊婦の霊魂が移りないたという石(夜泣石)が、明治元年までここの道の伊中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。
 その後明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。
                         (現地説明版より)

    しかし、現在ここには無く「夜泣石跡」となっているのは、下段の「夜泣石」を参照してください

「夜泣石」はここより約700メートル北の旧国道1号「小夜の中山トンネル」脇あります。

旧国道1号「小夜の中山トンネル」脇の
「夜泣石」

      国1トンネルの「夜泣石」
 明治十四年(1881)東京の勧業博覧会に出展し、帰途国道1号線、小泉屋脇に置かれ現在もそのままとなっています。
 石面の「南無阿弥陀仏」の文字は弘法大師が指で書いたものと伝えられている
    (日坂地域振興の会 東海道小夜の中山峠」パンフレット)

もう一つの「夜泣石」は久延寺(この道の先の中山峠にある)の境内にあります。

小夜の中山峠の久延寺の「夜泣石」

           伝説 小夜の中山夜泣石
 その昔、小夜の中山に住むお石いう女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいるところへ、轟業右衛門という者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
 その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。
 里人はおそれ、誰言うとはなく、その石を、「夜泣石」と言った。
 傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。
 そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の付近で、妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
 その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。
     文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より
                           (現地説明版より)

どちらの「夜泣石」が本物か、諸先輩方の見聞をまとめると

                       夜泣石見世物綺譚 
 もともと夜泣き石は旧東海道の道の真中にあった(これは浮世絵「東海道五拾三次 日坂」に描かれています)が、明治元年、明治天皇の御東幸のおり道端に移しました。
 この「夜泣石」を久延寺は村の有力者から融資を受け寺の所有に移しました。
 そして久延寺は明治13年の東京浅草の「勧業博覧会」で見世物にしようと出品しました。
 しかし浅草の興行師が先に「夜泣き石のハリボテ」を見世物にして大儲けしたあとで、本物は「少しも泣かない」と全く評判が悪く儲けもなし。
 持ち帰る途中で資金がつき、焼津・和田港に放置されました。
 しかし村の有力者が見かねて持ち帰り、現在の国道「小夜の中山トンネル」横の小泉屋の裏手に置きました。
 昭和11年、今度は小泉屋が東京・銀座の松坂屋で開かれた静岡物産展に出展し大評判になりました。
 翌年、夜泣き石の所有権をめぐって久延寺と小泉屋の間で裁判沙汰となり、久延寺側は敗訴しました。  久延寺は代わりの石を境内に安置(夜泣き石跡で昭和30年代に見つかった石だそうな)して現在に至っています。
          「樫樹の広場」(http://www.wizforest.com/)の「東海道を往く」から借用しました。

これで「夜泣石」が二つある訳が解明され番納得できる解説だと思います。

では次へ進みま。この辺りは延々と茶畑が続きます。

松尾芭蕉
野ざらし紀行
句碑

        「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」
             松尾芭蕉 野ざらし紀行
 
(早立ちの馬上で、馬ともども目覚めが悪く残りの夢を見るように、とぼとぼと歩いている。
有明の月は遠くの山の端にかかり日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている)

                       (現地説明版より)

句碑の位置
夜泣石跡の文字の右下方の「四の位置が芭蕉句碑です。(久延寺まで1650m

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

さらに東進すると「涼み松広場」があります。

松尾芭蕉
涼み松句碑

句碑の位置
上図のの文字の右方の「三の位置です。

           「命なりわずかの かさの下涼み」  芭蕉
                       
涼み松
 
小夜の中山夜泣石のあった駅路の北側に大きな松があり、松雄芭蕉がこの木の下で「命なりわずかの かさの下涼み」と詠んだと言います。
 それよりこの松を涼み松と称されるようになりました。
 この句は延宝四年の「江戸広小路」に季題下涼み夏に記され帰京の途次の作と記されています。

                            (現地説明版より)

「涼み松広場」の街道南には「妊婦の墓」があります

妊婦の墓

            妊婦に墓
 松の根元で自害した妊婦小松姫(三位良政と月小夜姫の間に生まれた子)を葬った所で、墓碑に「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・・・・旧跡」と刻してあります。
                         (現地説明版より)

 とあった。東海道歩きの先輩方のサイトを見させて貰うと、「・・・良政卿と月小夜姫は娘の小石姫を主計助に嫁がせようと思ったが、すでに子を宿していた。無事男子を生んだ後、我が身の不幸を案じて自害した。」とあります。

妊婦に墓の先に「馬頭観世音」が祀ってあります

馬頭観世音碑

           馬頭観世音
 蛇身鳥退治の物語が言い伝えられています。
 この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、三位良政卿が乗って来た愛馬を葬ったところとされています。
                  (現地説明板より)

ここ「小夜の中山」を歩くと「夜泣石」伝説、「妊婦の墓」、馬頭観世音」の蛇身鳥退治伝説、
「佐夜鹿一里塚」お土産の「子育飴」など歴史話や伝説などが入り混じって訳が分かりません。

こんがらがった糸をスッキリ
しかし、これらの伝説・歴史を筋の通った話に纏めて下さった、「東海道にあこがれ東海道一人旅
決め込んで(実際はご夫婦二人で)「東海道を往く」をサイトに登場させた”樫樹の広場”主宰の
http://www.wizforest.com/camp/tokai/”氏のHPから引用させていただきます。

                      小夜の中山」という地名の由来

 平安時代、この地に「蛇身鳥」と呼ばれる、蛇の身体と刃の羽を持つ怪鳥が現れました。
 帝の命を受けた藤原良政は、この鳥を見事退治します。

 このとき、この地に住んでいた美しい娘「月小夜」と良政は結ばれます。
 良政は月小夜を都につれてゆきますが、月小夜は気苦労の多い都の生活をさけ、やがて山に帰ります。
 その月小夜が住んでいた山が「小夜の中山」です。

             「妊婦の墓」
 月小夜と良政の間には、小石姫と言う女の子が生まれました。
 やがて、良政の決めた許婚者が都からやってきます。

 しかし、このときすでに小石姫のお腹には足利尊氏の伯父、空叟上人の子供がいました。 小石姫は自分の身の不幸を嘆き、松の下で自害します。(後世にこの松が枯れたので、代わりに石で墓を作り「妊婦の墓」とよんだ。)

 子供を産んでから自害、という話と、子供がお腹にいるまま自害、という話の両方があります。
 近くには小石姫の墓といわれる「妊婦の墓」もあるのですが、生んでからじゃ「妊婦」はおかしいような…。
 しかしこの後、残された子供の話になるのでお腹にいるまま自害も変です。
 お腹の子供が2人目だとすると、すでに人妻とわかっているのに周囲が結婚を勧めるのが変です。(結論=都にいた良政が事情を知らなかった、と考えれば一番自然ですかね。)

 さて、小石姫が自害した松は「夜泣き松」と呼ばれました。
 きっと、夜に人知れず泣きながら死んだ…とかの話が元になったのでしょう。
 この悲恋の話は有名となり、江戸時代に入って東海道が整備され、旅人が多くなると観光名所となりました。

 いつしか、夜泣き松の皮をいぶした煙が、子供の夜泣きに効果があるという噂が広まります。  こうなると旅人というのは無責任なもので、悲恋話ゆかりの松の皮をみんなが少しずつ削り取り、ついには松は丸裸になって枯れてしまいます。

 観光名所がなくなるのは、土地のものにとっても困ります。
 そこで、せめて跡を残そうと、松の有った場所に大きな丸石が置かれました。すると、今度はこの石が「夜泣き石」として有名となります。

 おそらく、周囲の人も最初は夜泣き石の由来である、夜泣き松の話を旅人にしていたでしょう。しかし、やがて「わかりやすい」伝説が好まれるようになり、別の話ができていきます…

        茶屋「扇屋」の「子育て飴」の由来
 さて、残された小石姫の子供は、空叟上人が中国伝来の製法の飴を使って育てます。
 これが「子育て飴」の由来です。(扇屋には、「夜泣石」伝説の由来と「小石姫伝説」の由来の両方が書いてあります)

 幸い、この周辺には「妊婦の墓」「子育て飴」「夜泣き石」という、なんとも謂れありげなものが揃っています。これらを組み合わせて江戸時代中期に作られた「新作の伝説」が、最初に挙げた夜泣き石伝説だったというわけです。もともといいかげんな作り話なのですから、亜流が多いのにも納得です。

          「夜泣き石」が二個ある理由
 ちなみに、明治時代に邪魔だからとどかせた夜泣き石は、久延寺が買い取って観光の目玉にしました。東京まで運んで見世物にしたのも久延寺です。

 しかし、興行は大失敗。
 帰りの金も出せなくなって、石を焼津まではこんだ所で運ぶ資金が尽きました。
 これに対し、村の大切な石をそのままにはして置けないと、村の有力者が金を出し合って石を村まで持ち帰ります。
 そして小夜の中山トンネルの脇にあった料理屋、小泉屋の裏に設置します。

 昭和11年、再び夜泣き石は東京で見世物にされます。
 このときは大評判となったのですが、そうなると口惜しいのが久延寺。
 石の所有権を主張し始め、小泉屋と裁判で争うことになります。

 結局久延寺は裁判で負け、似たような石を探してきて境内に設置しました。
 …つまり、これは明治期に作られたのも松に代わる偽物ということです。
 しかし、先に説明したように、そもそも夜泣き石自体が偽物の伝説ということになります。

 蛇身鳥退治・小石姫悲恋の伝説はともかく、そのゆかりの松を枯らせてしまったり、観光のために話をでっち上げたり、話題になった石を見世物にしたり所有権を争ったり、さらには偽物の夜泣き石を作ったり…なんとも人間の業の深さを感じる話です。

 以上が歴史に詳しい
      ”樫樹の広場「東海道を往く」の”http://www.wizforest.com/camp/tokai/”氏の
                         スッキリする「小夜の中山」歴史と伝説の解説でした。

追記「馬頭観世音碑」と「蛇身鳥退治伝説」です。

     馬頭観世音碑と「蛇身鳥退治伝説」

 遠州菊川の里に、愛宕(あたご)の庄司 平内という狩の好きな男がいました。
 平内は、美しい妻と、娘の月小夜と、息子の八太郎と四人で平穏な暮らしをしていました。
 しかし、息子と娘は、平内が鳥や獣を捕ってくるたびに、心をいためていました。
 「おとうさん、どうか、もう鳥や動物たちを殺すのはやめてください」
 八太郎は、何度も平内に頼みましたが、平内はいっこうにやめようとはしませんでした。

 ある日、平内はいつものように山へと入っていきました。
 前の日に降った大雪で、あたり一面真っ白でした。
 歩いて行くと、行く手にがさがさと黒い影が動きました。
 「しめた、大きな熊だ!」
 平内が矢を放つと、びゅーんと音をたて、その先でどさりと倒れる音がしました。
 白い雪の上には真っ赤な血が飛び散っています。
 平内が獲物に顔を寄せたときです。
 「おとうさん…」
 今にも消えいりそうな声がするではありませんか。
 息子の八太郎が平内の狩りをやめさせようと、熊の皮をかぶっていたのです。
 平内は涙を流し、わが子を抱きかかえました。

 平内が亡骸を抱いて里に帰ると、妻は変わり果てたわが子八太郎の姿を見て、狂ったよう に泣き叫び、そのまま家を飛び出し、菊川の淵に身を沈めてしまいました。
 それからというもの、菊川中山、海老名(あびな)のあたりに夜な夜な奇妙な声でなく怪鳥が あらわれて、里の人や旅人を襲うようになりました。
 人々は「亡くなった子どもを思う女の化身では」とうわさしました。
 それは、頭は鳥で、体は蛇、広げた翼は鋭い刀を編んだようになっている、世にも恐ろしい 怪鳥でした。
 里人が困っていると、上杉三位良政(さんみよしまさ)公と屈強な家来橘主計助(たちばな かずえのすけ)が、帝の命令で都から怪鳥退治の武将がやってきました。
 ふたりは苦闘の末、見事に怪鳥を討ち取りました。

墓碑の位置
下図の「三、涼み松」の文字の上方の「妊婦の墓の位置です。

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

スッキリしたところで次へ進みます。

次に壬生忠ュ(みぶただみね)句碑があります。

壬生忠ュ句碑

句碑の位置
上図の「Iの位置です。(久延寺まで1200mです)

碑の画像なし
「東路のさやの 中山さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん」
 壬生忠ュ
句碑を見逃したため画像はありません。

壬生忠ュ(みぶただみね)は平安初期の歌人で三十六歌仙の一人と言われています。
(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

さらに東方へ進むと白山神社があります。

白山神社

神社の位置
上図Iの文字の右方の「白山神社の位置です。

遥か白山を望む街道沿いにひっそりと祀られる白山神社

白山神社から更に進み街道が分岐しているところに「芭蕉の「道のべ」句碑」があります。

松尾芭蕉
野ざらし紀行句碑

「道のべの 木槿は馬に けれはけり」
松尾芭蕉 野ざらし紀行
 
道端の木槿のはなが、乗っている馬にパクリと一口 食われてしまったよ。
 (現地説明版より)

句碑の位置
下図の「二の位置です。(久延寺まで900mです)

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

街道の南側に小さくて黒ずんだ石に見えますので見逃さないで、

藤原家隆朝臣句碑

句碑の位置
図の「Hの位置です。(久延寺まで800mです)

「ふるさとに 聞きしあらしの声もにず 忘れぬ人を  さやの中山」
                     藤原家隆 新古今和歌集
 (
旅にでて耳にするここ 佐夜の中山の山風の音は、都で聞いたのとは似ても似つかない。このように都の遠ざかってのであるから、いっそみやこの人のことなどわすれてしまえ。)
                          (現地説明版より)

         藤原家隆
(ふじわらにいえたか)鎌倉時代初期の公卿で歌人でもあった人
                      (フリー百科事典ウィキペディアより)

少し先に紀友則句碑が南側にあります。

紀友則句碑
(きのとものり)    

「東路の さやの中山なかなかに なにしか人を  思ひそめけむ」
                        紀友則 古今和歌集
 
東国へ行く人が きっと通るのが 小夜の中山である。中山といえば、なかなかに(なまじっか)どうしてあの人に思いを掛けたのであろう。)
                            (現地説明版より)

      紀友則
(きのとものり)平安時代前期の歌人・官人で三十六歌仙の一人と言われています。
                      
(フリー百科事典ウィキペディアより)

句碑の位置
下図の「Gの位置です。(久延寺まで650mです)

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

次は蓮生法師(れんせいほうし=鎌倉初期の坂東武者の熊谷 直実(くまがい なおざね)のこと)句碑です。

蓮生法師句碑

句碑の位置
図の「Fの位置です。(久延寺まで450mです)

「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山」
 蓮生法師 続後選和歌集
遥か甲斐の白根の雪は白い。 今、神無月(十月)、 時雨の中、中山をこえることことだ。)
 (現地説明版より)

  蓮生法師
(れんせいほうし)鎌倉初期の坂東武者の熊谷 直実(くまがい なおざね)のことで源平合戦のおり自分の子と同年代の貴公子(平敦盛)の首を捕り無常を感じ出家し、法力房蓮生となのり各地で寺院を開基し生涯を終えた。           (フリー百科事典ウィキペディアより)                 

見逃しましたが「蓮生法師句碑」の次でこの辺りです。

鎧  塚

の画像なし

 この「鎧塚」は、北条時行之一族の名越太郎邦時が、「中先代の乱」の時、京へ上ろうとして、この地で足利一族の今川頼国と戦い壮絶な討ち死にをした。
 今川頼国は名越邦時の武勇をたたえて、ここに塚をつくって葬ったと言われています。(以上現地の説明板より)

 中先代の乱(なかせんだいのらん)とは、建武二年(1335)七月、北条高時(鎌倉幕府第十四代執権)の遺児時行が、信濃の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府復興のため挙兵した反乱のこと。
 「中先代」とは先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。(以上ウィキペディアより)

塚の位置
図の下部中央左寄りの「鎧塚の位置です。(久延寺まで550mです)

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会より)

「鎧塚」の次が「神明神社」です。

神 明 神 社

神社の画像なし

神社の位置
図の「鎧塚の右方の位置です。(久延寺まで450mです)

次に「佐夜鹿一里塚が見えてきます

佐夜鹿一里塚跡
(久延寺まで300mです)

        佐夜鹿(小夜の中山)一里塚
 徳川家康は慶長六年1601)、江戸と京都を結ぶ東海道に宿駅を設置しました。
 その後、街道の並木の整備とともに一里塚が作られました。
 一里塚とは、江戸日本橋を基点にして一里(三十六町)ごとの里程を示す塚で、街道の両側に5間(約九b)四方の塚を築いて、その上に榎や松が植えられました。
 ここ小夜の中山の一里塚は、慶長九年1604)に作られました。
 日本橋からこの一里塚までの里程を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて五十六里と言う説があります。
 また、元禄三年1690)の「東海道分間絵図」では日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里三十町ですので、この一里塚は五十二里に相当します。
 天保十四年1843)の「東海道宿村大概帳」では、日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里に相当すると思われます。
 東海道のルートは時代とともに若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したと言う記録はありません。
 いずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などによっておおよその道程の目安になっていたことと思われます。
                            (現地説明版より)
 
なぜ「佐夜鹿」と呼ばれるか知りたい=小夜の中山の語源かもと思われますが、「鹿」がわからない?!

次は西行法師歌碑です

西行法師歌碑
(久延寺まで100mです)

               西行歌碑
                         ーー生涯二度目の難所超えに詠むーー
 西行法師は平安時代の歌人、新古今和歌集に最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつが、この一首である。
              年たけてまた越ゆべしとおもひきや
                 命なりけりさやの中山

 二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年六十九歳の作である。
 この歌は、文治三年(1186)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡(ひでひら)を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。
 小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この一首は歌枕としての小夜の中山の名を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれれようになる。
 当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)を越えることすら相当の旅行であったという。
 奥州までの旅は大変なものであった。
 古代からの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれるてから六年後の鎌倉幕府の開設以降である。
 西行歌碑の建立については市内短歌会が中心になって募金運動がすすめられ、寄せられた募金をもとに昭和五十五年十月建立された。
 碑文の揮毫(きごう)は歌人である西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎氏、設計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授(当時)故吉坂隆正氏によるものである。
                                (現地説明版より)

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会より)

街道から南へ登った「中山公園」に「西行法師句碑」と「橘為仲(たちばな の ためなか)朝臣」の句碑があります 。

西行法師句碑

句碑の位置
「Dの位置です。

碑の画像なし
「風になびく 富士の煙の 消えてゆくへも 知らぬわが思ひかな」
 西行法師

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

同じ場所にあります。

橘為仲朝臣句碑

句碑の位置
「Cの位置です。

碑の画像なし
「旅寝する さやの中山 さよなかに 鹿もなくなり 妻や恋しさ」
 橘為仲朝臣

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

橘 為仲(たちばな の ためなか=長和三年(1014)頃 から 応徳二年)は、平安時代後期の公家・歌人です。
(フリー百科事典ウィキペディアより)

やっと小夜の中山峠へ着きました。久延寺も見えてきました。

中山峠と茶屋「扇屋」

往時の賑わいも無く中山峠はひっそりとしていました。
茶屋「扇屋」は土日は営業で、平日はお休みのようです。名物は「子育て飴」です

                  子育飴の由来 
 蛇身鳥を退治した藤原良政卿の妻月小夜(清道禅尼)は娘の小石姫に主計助との婚約を語ったが、すでに中山寺の住職足利尊氏の伯父空叟上人の子を宿していた。小石姫は月満ちて無事男子を生んだが、身の不幸を安じて中山千人斬の松の許で自害した。
 小石姫の遺児「月輪童子」は空叟上人の中国伝来の飴の製法を受けついだ峠の末広荘(扇屋)の飴で育てられた 13才の時、父子と名のれぬ空叟上人の弟子となり、後に中国で修行し、帰国後中山寺に身代り子育観世音を安置した。
 十三才の春、京都へ立ち、その後九州・四国へと修行を重ねていった。
                          (現地案内板より)

小夜の中山峠の頂上付近に久延寺があります。

久延寺

山門下には灯篭があり一見、神社に思えます。

山門の札
字はかすれて読みにくいが山内一豊が徳川家康をもてなした寺で
家康お手植えの五葉松があり夜泣石もあることが書かれているようです

               市指定文化財久延寺境内
 久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山
 本尊は、聖(ひじり)観音で、「昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の敵(かたき)を討つことができた。
 これはひとえに本尊の加護によるものである。」という夜泣石の伝説に因(ちな)み、子育て観音と称される。
 慶長五年(1600)、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。
 
       昭和四十年二月一日指定
               掛川市教育委員会
                                (現地説明版より)
       「東街便覧図略(とうがいべんらんずりゃく)」
                  (
国立国会図書館所蔵)

 上の絵は、天明六年(1786)に尾張藩士高力種信が東海道の風物を描いたものの一枚である。
 久延寺とその西に並ぶ飴屋などが描かれていて、当時の風景を知ることができる。
    掛川市教育委員会
                           (現地説明版より)

山号は佐夜中山と言う

久延寺の境内には「夜泣石」と山内一豊が徳川家康をもてなした「茶亭跡」があります。

久延寺 夜泣き石

            伝説 小夜の中山夜泣石
 その昔、小夜の中山に住むお石いう女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいるところへ、轟業右衛門という者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
 その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。
 里人はおそれ、誰言うとはなく、その石を、「夜泣石」と言った。
 傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。
 そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の付近で、妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
 その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。
     文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より
                           (現地説明版より)

久延寺境内に徳川家康ゆかりの「茶亭跡」があります

延久寺茶亭跡

                 茶庭跡
 慶弔五年(1600年)掛川城主 山内一豊 は境内に茶亭を設けて、大阪から会津の 上杉景勝 攻めに向かう 徳川家康 をもてなした。
 関ヶ原の合戦の後、山内一豊 は功績を認められ、土佐二十万石に栄転した。
                         (現地説明版より)

久延寺向かいの展望のよい道端に「接待茶屋跡」がある。

中山峠接待茶屋跡

              接待茶屋跡
 鎌倉時代・永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶などを接待し、旅人の憩いの場となっていたといわれる。
 芭蕉の「馬にねて 残夢月遠し 茶のけむり」の句もこの辺りで詠まれたものであろう。
                      (現地説明版より)

久延寺から街道を東へ50mほどの南に橘為仲朝臣句碑があります。

橘為仲朝臣句碑

句碑の位置
「Bの位置です。(先のCの位置の句碑と同じ句です?)

碑の画像なし
「旅寝する さやの中山 さよなかに 鹿も鳴くなり 妻や恋しさ」
 橘為仲朝臣

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

橘 為仲(たちばな の ためなか=長和三年(1014)頃 から 応徳二年)は、平安時代後期の公家・歌人です。
(フリー百科事典ウィキペディアより)

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会より)

少し進むとの鴻村・現代句碑松尾芭蕉 野ざらし紀行句碑があります

鴻村・現代句碑

句碑の位置
「一の位置です。

碑の画像なし
「西行の命の山ぞ ふきのうた」
 鴻村・現代

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

松尾芭蕉句碑

句碑の位置
「五の位置です。

碑の画像なし

「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」  

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

さらに150mほど進むと衣笠内大臣句碑があります。

衣笠内大臣句碑

句碑の位置
「Aの位置です。

碑の画像なし
「旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり」
 衣笠内大臣

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

更に200mほど進むと阿佛尼句碑があります。

阿佛尼句碑

句碑の位置
「@の位置です。

碑の画像なし
「雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月」
 阿佛尼

(「東海道小夜の中山峠周辺案内」日坂地域振興の会パンフより)

本日の終点は「浮世絵美術館夢灯
「夢灯」の位置は「西行歌碑」の街道向かい(北側)で駐車場もあります。
入館料(協力金)は300円、開館日は土・日・祝日、開館時間:10:00〜16:00

「夢灯」浮世絵美術館

中山峠にある「うきよえ びじゅつかん 夢灯(ゆめあかり)」のこころ
『当館は廣重、北斎、その他江戸時代後期の浮世絵の東海道の宿駅の作品を集め
古の人々の心、灯火(ともしび)に触れていただけることを願っている。
ここの館名の「夢灯」の所以がある』
 冊子からの文章そのままで紹介

「夢灯(ゆめあかり)」でいただいた冊子に掲載されていた
浮世絵「東海道五十三次 日坂集」

この「日坂集」6枚中3枚までに「夜泣石」が描かれています。
当時から「夜泣石」は有名だったのでしょう

小夜の中山 浮世絵美術館「夢灯」パンフより

狂歌入り東海道  「日坂」

隷書東海道 「日坂」
葛飾北斎  「日坂」 歌川國長 「日坂」
行書東海道  「日坂」 歌川芳員 「日坂」

この他多数の浮世絵が展示され季節毎に展示品を入れ替え来館者を楽しませていただけます。

街道にふさわしい浮世絵の世界を最後にこの編は終了します。