三重県伊勢神宮
三重県伊勢市河崎町
(2012.01.25)

 平成12年伊勢神宮初詣と江戸から昭和初期まで瀬田川水運を利用した、お伊勢船詣でと、
伊勢の物資を集積した商屋や瀬田川沿いの蔵など昔ながらの姿をぶらり見物をしました。

外宮参拝

内宮の先に外宮へお参りします

外宮をお参りしてから内宮をお参りするのが普通だそうです。

この付近から前は撮影禁止エリア

同じ境内にある不思議な石群(説明が無いので由来不明)

今の外宮本殿の奥が平成25年(2013年)に遷宮された新殿舎が建てられる敷地です。

内宮参拝

神楽奉納殿
今回も沢山の団体が「お神楽奉納」の順番を待っていました。

平成25年遷宮
20年に一度行われる遷宮準備のため新宮造りが始められていました。

この石段から先がカメラ禁止エリアです。

内宮(ないくう)は皇大神宮(こうたいじんぐう

お札売り場は例年より閑散のように思われました

空勇号(そらいさむ)
投げ銭しないこと、フラッシュ撮影しないこと、食べ物を絶対に与えないこと

外宮と内宮の参拝を終えて昼食のため「おかげ横丁」へ

おかげ横丁

食事処の2階から見る「おかげ横丁」は例年通りの賑わいでした。

満席のため食事処の食事時間は30分と制限されていました。

食事後お「かげ横丁」を散策後「五十鈴川」下流の勢田川にある湊町「旧河崎問屋街」見物に

伊勢河崎町
旧問屋通り

伊勢河崎
近鉄伊勢市駅東のガード下の横断歩道を渡って北へ進み瀬田川に架かる「清浄坊橋」手前北へ入ると
旧問屋通りです。 往時の伊勢参りは全国各地から一生に一度、数十日間歩いてやっと念願の「お伊勢さん」へ
到着したのですから逗留は平均五日だったそうです。                                
 参拝者は江戸末期には年間数百万人を数え、この参拝者の膨大な食料などを準備する「伊勢の台所」として栄えた
問屋街は瀬田川沿いに大きな蔵を構え米・魚などを荷揚げし大いに栄えました。

近鉄伊勢市駅東の八間通り近鉄ガード脇に「山田奉行公事(くじ)屋敷跡」があります。

山田奉行公事屋敷跡

                山田奉行公事屋敷跡
                  (所在 伊勢市吹上二丁目お屋敷)

 山田奉行の創始は、徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長八年(1603)にさかのぼります。
 この年、長野内蔵允友秀が派遣され、このあと、明治維新まで四十八代、その治政は二百六十余年に及びました。
 初期の奉行は、伊勢の国の奉行を兼務しましたから、山田市内に下代を置いて、その役宅で公事を行いました。
 このため、市内には、ほかにも役所の名を冠した地名が残されています。
 「お屋敷」の名で呼ばれるこの公事屋敷跡は、六代岡田伊勢守善同が、寛永七年(1630)に新設した役所跡です。
 その後、花房志摩守幸次が山田奉行専任となると、現在の御薗町小林に奉行所を建設、寛永十五年(1638)、有滝浦にあった船蔵や同心屋敷の機能も移されましたが、しばらくはそのまま使われたとも伝えられています。
 吹上二丁目の公事屋敷跡は、今も「お屋敷」と呼ばれ、また、かってのその鎮守社であった「お屋敷稲荷」(北北東へ130b)は今も多くの人の信仰を集めています。    (伊勢市教育委員会)

庚申堂

旧問屋街は今は衰え通りを歩く人もな、ほとんどの家も建替えられ一部のみ残っている状況です。

伊勢の伝統的な建築様式
妻入り・きざみ囲い

妻入り
切り妻は屋根の形の名前。三角の、山形の形。
妻入りは、この妻の部分に玄関がある家のことをさします。妻の側ではなく、
屋根の棟と並行の面に玄関があれば"平入り"で、これは神宮と同じ形式。
それでは恐れ多いので、庶民は妻入りにしたというわけです。
きざみ囲いは外壁の様式のこと。
横に板(下見板)を重ねていって、それを細い角状の棒(たて桟)を縦にのせてまとめる様式で、
下見板張りとも言います。

榎本商店

井爪飼料店

村田家

榎本商店

旧問屋通りの真ん中あたりに「宮川道」と「二見?道」の分岐の道標があります。

道標

 
 

勢田川から荷揚げが楽になるよう問屋街に濠が作られたようです。
河崎環濠跡は道標から「二見道」へ入り50mほどにあります。

河崎環濠跡

『勢陽五鈴遺響』弘治年間1555〜58によれば、この頃に河崎の環濠が造られたといわれる
(惣門もこの頃築造か)  河崎かわら版より

問屋街通りの中央あたりに中橋と伊勢河崎商人館の分岐道標があります。

中橋

天文六年1537)河崎の大橋(現中橋)が架橋されたといわれる  (河崎かわら版)より

勢田川

伊勢神宮に献上する魚を取った処から、 古くは御贄川(おんべがわ)と呼ばれていた。
(河崎かわら版)より

 

河崎蔵

 

和具屋(大西家)

ガイドブックによると有名な建物ですが画像がありません

大長商店(中江家)

 

山五鰹節店

河辺七種神社
(かわべななくさ)

 
 
安政5(1858)
前年の向河崎の大火により、防災等のために南新橋と北新橋の新設が山田奉行に陳情され架橋される

伊勢河崎商人館

入館料300円必要です

勢田川

永仁三年(1295)この年に「伊勢名所絵歌合」が作られ勢田川と詩歌の名所河辺里の夏の風景が描かれる
(「河崎かわら版」より)

おまけ

門付

         門付(かどずけ)
 伊勢地方には「笑門」「千客万来」「蘇民将来子孫家門」なとと書いた注連(しめ)飾りを年中飾ります。
 これは、その昔スサノオノミコトガこの地方を訪れた時、蘇民将来の暖かいもてなしを受けたことに感銘し、旅立つ時、門口に「門付」を掛ければ子孫代々無病息災になる言い残したと言う伝説に由来してるそうです。
 普通、松の内だけ飾るのを厄除けの効果があるのでこの地方では一年中飾るのだそうです。

内宮と外宮の間にあった一大歓楽地
伊勢古市

古市三座
江戸時代古市三座と呼ばれる芝居小屋が伊勢市古市に三つも在りました。
「伊勢の古市で評判にならないと京、大阪の桧舞台は踏めない」と言われた役者の登竜門でした。
これは、江戸時代には 「 お陰参り 」 という伊勢神宮参拝が大流行した結果、 全国から一生に一度の
神宮参拝だということでたくさんの人が訪れれました。
伊勢古市の地の利
「 古市 」 は内宮と外宮の間にあり 、そこは一大歓楽地で、参拝が終わった後にここで精進落としをするのが
隠れた 「 お陰参り 」 の目的だったともいわれていました。 ( 弥次さん喜多さんの場合は参拝もせぬうちに先ず精進落とし )。 
 最盛期の 「 古市 」 には70軒の遊郭があり、遊女は千数百人、芝居小屋三座もありました。
江戸の吉原・京の島原と並ぶ日本三大遊郭の一つだったと言われ、またある本では日本最大の歓楽街だったと書かれています。
伊勢詣では年間数百万人
伊勢の古市の 「 商圏 」 は全国。 天保元年 ( 1830 ) の3月から6月までの間に伊勢神宮を参拝した人数が
4百万人を越えたという記録があるので 「 古市 」 に ” 詣でた ” 人数も相当なものだったでしょう。
 また古市三座といわれた芝居小屋では 「 古市歌舞伎 」 が多くの人を集めました。
当時ここは京・大阪の歌舞伎舞台への登竜門でもあったようです。

これらのバックボーンから考えると伊勢河崎がいかに物流の集積地として栄えたかが分かります。

現在の様にバスで日帰りで「お伊勢参り」が出来る交通機関が無かった時代の、
「お伊勢参り」は信仰だけでなく大きな楽しみがあった為に何日も歩いてこの地をめざしのかも知れません。